哲学と漫画が上手に溶け合う世界観
人を許すということ
空の食欲魔人に続く第二弾「カレーの王子さま」主人公みすずは、イライラしている。人間の感情であるはずのこのイライラを物語の最初から持ち続けています。異常な食欲のまさしく食欲魔人の弘文。商品名を言い当ててしまうほど、カレーに詳しくなっています。結婚式に蕎麦の出前を三人前頼む。寝床でもお菓子を食べる。それはみすずでなくても堪忍袋の緒が切れる!異常食欲者とみすずに言われ、弘文は「俺は実家に帰らせてもらう!」みすずの実家へ帰ります。やっとで静かに眠れるはずだったのに、夢のなかでお姫様になってカレーの鍋のふちを歩く。カレーの鍋に溺れた王子様がひとり、弘文だ。夢のなかにまでも出てくるカレー攻め、カレーの鍋で溺れた王子様かわいそうねと思って起きる朝は、センチメンタルな気持ちなのでしょうか。みすずの表情が少しやわらいでいるのがわかります。三日後、家出した弘文の制服を持って実家へと急ぐみすず、でもいつも通りの弘文がいます。みすずが理不尽に怒ったり、異常食欲者と言ったことを許しています。この許しがあったからこそ、みすずも自由に振る舞えるのです。みすずみたいに意地を張らないで、弘文みたいに許すことができる人になりたいと思うのですが、人の心って頑なで素直になれない部分を持っています。ずっと言われたことを根にもったりしてなかなかうまくいかない。本当の意味での許しというのは、心の底から人を許すということ。これはなかなかできなかったりしますが、人間の根本的な本当に必要なものなのかもしれません。それを川原先生は言いたかったのかなと思います。
主婦の気持ちをそのまま表した作品
みすずがイライラしているのは、パイロットと主婦との差。なりたい夢もあった。それなのに今はご飯を作る毎日。ああ、主婦の気持ちをそのまま代弁しています。主婦の仕事は、それだけではありません。炊事、洗濯、掃除があるのです。子どもがいたら、子どもの世話まで入ります。それが終わったら、自由時間でしょと思うかもしれませんが、買い物に行ったりしているうちにまたご飯を作る時間になります。毎日がそれだけだと自分の人生がご飯作りで終わってしまうような本当にそんな気分になってきます。そんな気持ちのひとかけらでもわかってくれる理解者がいたら、それで満足なのですが、理解してくれる人=夫とはなりません。
とても辛い辛いカレーを作り、弘文に食べさせるというところで、やっとこのイライラが落ち着いています。弘文が副操縦士をつとめているフライトにこっそり乗り込んでまで食べさせたいと思う。機長が食中毒で倒れ、みすずがちゃんと「すばらしく美味なカレーができたから、ぜひ味わってもらおーと思ってさー。はるばる足を運んだわけよ。これを食べたかったら無事にアンカレッジに着くことね。わたし、アラスカなんかで死ぬのいやだし」と夫を励ます。そして、弘文は妻のためというより、カレーのために無事にアンカレッジに到着した。副操縦士のことを隣のお医者さまに褒められ、やっとでみすずの笑顔が見られます。夫のことでイライラしていたはずなのに、夫のことを褒められにっこりしています。世の中の妻のことをよく見ているなと思います。思い出しては怒りがこみあげ、理不尽なことで当たってしまったりします。みすずもそれにもれないで、急にあやまれと言ったりして弘文を謝らせている。でも、夫のことを褒められると、それはそれで悪い気はしないのです。最後にカレーの王子さまだった彼が今度はきしめん狂いになってもみすずは静かに傍観しています。
本当にミソ・スープで哲学の話
「ミソ・スープは哲学する」「・・・しかし、あなたももの好きな人だ。ミソ汁ならちゃんとした料理屋に行けば、もっといいのがいくらでも・・・」「・・・それがどーもだめみたいなんです。この家以外のミソ・スープでは、音楽的発想がさっぱり・・・なぜでしょう?」日本公演中に音楽性の相違からロックバンドを脱退。お金を落とし、道に迷って雪が降っていたとき、うずくまって途方に暮れていたシドニー・ハワードにミソ・スープを飲ませてくれたのが、島崎郁だった。本当にお腹がすいたときに食べるものってありがたくて印象に残るものです。この1杯のミソ・スープがあったからこそ、彼には新しい曲のインスピレーションがひらめいた。異国の彼にとって、初めての味の出会いだったのかもしれない。それを郁が出会わせてくれた。だから、ひとりで飲むミソ・スープは、いつもの味と違った。郁+ミソ・スープで味が変わり、郁が必要だったのだと気がつきます。郁の父は早くに気がついていました。教授も「限定されるミソ・スープの効力ねえ。面白い」「なぜなんでしょーね、教授」「んな事は自分で考えたまえ」聞かれていますが、答えはとっくに知っています。自分で考えたまえと言っているのは、自分で気がつかなくては意味がないと言っています。恋というエッセンスが入っていたから、おいしく感じたのでしょう。シドニーが「郁さんはミソ・スープがここにあるとはどーゆーことか考えた事はありませんか?」と聞いています。郁は頭のなかで「ばかか、こいつ。ミソ汁食うたびに毎朝、そんな事考えてみろ・・・気が狂うぜ」と思っています。その哲学者であるシドニーと哲学者でない郁の違いが面白く光っているシーンです。シドニーは頭のなかが哲学的であるので、恋という違うものが飛び込んできているのに、なかなか理論的に解決しようとして気がつかない。結局それに気がつくのも哲学的に考えて気がつくのですが、もっと早くに気がつけと突っ込みたくなります。1杯のミソ・スープが人の人生を変える。食は人の基本的なもの。それが満たされるということは、心も満たされる気がするのは私だけでしょうか。
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