子供の目を通して利己的な大人の社会の姿を浮き彫りにする
子供の目を通して大人の世界を描く
ロック歌手のママ、画商のパパの間に生まれた7歳のメイジーの視点を通して大人たちのごたごた喜悲劇を描いたこの作品は、映画自体はフラットなトーンで描かれているのに、見ている私の心は常にざわざわと揺さぶられて、騒々しいくらいだった。
優れた児童文学というものは、子どもに向けて作った文学なのではなくて、子どもの視点から見える物語を通じて子どもの心をありありと再現させた文学である、と、以前河合隼雄先生が書いていたけれど、「メイジーの瞳」は、まさにこのことを映像でやったのだと言える。
見ている間じゅう、メイジーの心に寄り添い、子どもの世界のありようをまざまざと感じることで、今ではすっかり大人になってしまった私は、そして二人の小さな子どもを今まさに育てている私は、何度も発見をし、胸が痛み、子どもというものの立派さに驚嘆し続けることになった。
子供として生きる大変さを浮き彫りにする
息子がまだ小さかった頃、慣れない母子ふたりきりの毎日の中、いっぱいいっぱいだったわたしが息子がある程度育ってようやく気付いたことが、子どもとして生きるってつくづく大変なんだろうな、ということだった。
それは全て受け身で、基本大人に引っ張り回されながら毎日をドライブしていくことの大変さ。
母である私にとっては平々凡々とした、たわいない専業主婦の毎日であって、できるだけストレスを溜め込まぬよう、ほうぼうに出かけてみたり、あるいは家で家事をこなしたり映画も見たり。病院や役所に行ったり、人に会ったりもする。
けれど、年端の行かない子どもにとっては、そんな母親の「気まぐれ」にひたすら付き従うしかない、予測のつかない毎日なのだ。
今日はどこへ行くのか、あるいはどこへも行かないのか。何をするのか、何を食べるのか。
子どもにとっては全てが出たとこ勝負の毎日で、しかも自分にはなんら決定権はない。
この映画では、もう、まるでジェットコースターのように、あっちこっちへ、大人の都合だけでしじゅう引っ張り回される女の子の日常が描かれている。
今日は誰が学校へ迎えに来るの?
今日はどこで寝るの?
どうしてお父さんは、あるいはお母さんはいないの?
いつ帰って来るの?
私はどこに住むの?
私はだれと住むの?
それら全てについて、全く彼女の意見は考慮されることも、尋ねられることさえもない。所有物のように、意思のない者として扱われる。
そして、基本姿勢として、そのようにして生まれ育って来た7歳のメイジーは、それを仕方のないこととして、あくまで前向きに、淡々と受け止める態度が身に付いている。その時、その瞬間だけを見る、考える、という姿勢。
両親は、世間的には名のあるアーティストと呼ばれる人々。そういう人種にありがちな、欲望にあくまでストレートで、自分のことに夢中で、他罰的で、地に足のつかない、無邪気で魅力的で幼児的な人々。
彼らの気まぐれでselfishな愛情を、メイジーはただ受け止め、許している。
親という権力をもつことの怖さ
メイジーは、とりわけ大変な家庭であるということはもちろんあると思う。ただ、この映画には普遍的なメッセージが多分に含まれていると思う。
それは、「親というものは、子どもに対して絶大な権力を持っている」ということ、そして、「親というものは、容易にそのことに対して傲慢になりうる」ということだ。
親の絶大な権力を前に、そのことに対して謙虚に、子どもをみくびらず、自分にかまけず、子どもを導きながらも人として子どもをリスペクトする姿勢を持つということは、本当に、本当に、ほとんど無理じゃないかと思うくらいに、むつかしいことなのだ、ということ。
そしてそれは、親の人間的資質はもちろん左右するのだけど、「親」という権力者の立場につくか否か、という状況によっても大きく引き出されるものだ、ということが、この映画を見ているとようく分かるのだ。
一旦親という立場を手に入れると、意識的にせよ無意識的にせよ、子どもを好きなようにする権利がある、と人間はどこかで思ってしまうという思いに陥りがちになるということだ。
そこをちゃんと描いているのがこの映画の怖い、すごいところだと思う。
離婚する父親が、メイジーを引き取りたくて、でも日常自分が世話をすることができないので、ナニーだったマーゴという若い女性を適当に口説いて妻にするというくだりがある。
それまでの生活で、マーゴは、唯一メイジーの心に寄り添って共にいる存在だった。
なので、メイジーにとっては喜ぶべきことかと思いきや、妻になった途端に、マーゴはいとも簡単にメイジーの気持ちよりも「妻」の座を振りかざし、大人の事情を優先する行動に出る。
「ごめんね、愛してるわ」と言いながら、メイジーを母親の恋人に押し付けてタクシーで足早に去って行くシーンは、さりげなく描かれているけれど象徴的だ。
話には続きがあり、所詮メイジーの世話をさせたいだけという父親のたくらみは彼の利己的な行動から早晩明らかになり、利用されたことを知ったマーゴは彼の許を去るのだが、もはや母親でなくなったマーゴは、メイジーを可愛く、不憫に思う気持ちから、大人として出来る限りのことをしようとする。
父親と同様、母親の恋人リンカーンもマーゴと同様、母親とは破綻した後も、放ってはおけないという気持ちだけで、メイジーのケアをする。
皮肉なことに、メイジーの気持ちと状況について親身に考えられるのは、他人だけ、なのだ。それはとりもなおさず、子どもを一人の人間として尊重できるか否かということ、子どもを守られるべき存在だという大人の責任感から捉えられるかということだ。
そしてそのことを、人は「親である」という状況におかれると、容易に反古にすることが出来得るのだ。
誰もよっぽどのことがない限りにおいて、「親のすること」に口出しや非難はできないから、こうした状況には歯止めが利きにくいことも、子どもにとっては大変なことだ。
こうしたケースは、多かれ少なかれ、世界中に腐るほどあるのが今の世の中だ、と思う。
子供はたくましく立派に生きてゆく
映画の最後に、気まぐれな母親がメイジーを連れて行こうとすると、メイジーは「あさって行きたい。明日はリンカーンとボートに乗る約束があるから」と言う。
今、この瞬間でないと都合が悪い母親は、脅迫めいたことすら口にし、メイジーを言うなりにしようとするが、メイジーは責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ小さく首をかしげて母親を見ている。
「誰が母親か分かってる?」という母親に、「あなたが母親よ」とメイジーがハグするシーンは、子どもの立派さと、人としての幸せを自ら取り返しつかなく手放しているみじめな母親の対比が、たまらなく情けなく切なかった。
メイジーの父親も、母親も、悪気はない。誰よりもメイジーを大好きだと思っている。けれど、親としての責任を果たすということについての実感が、希薄なのだ。
それよりも優先させなければならないものが、彼らにとっては多すぎるのだ。彼らにとってはそれは「仕方がないこと」なのだ。
だからといって。
だからといって、子どもの人生を損なって良い訳がない。
そこは、やっぱり死にものぐるいで考えなければいけないことなのだ。
映画は、波止場をボートに向かってメイジーが駆けてゆくシーンで終わる。
ただただ無心に太陽に髪をきらめかせ、一心に走ってゆく。
このような世の中にあって、沢山のメイジーたちは、たくましく立派に生きてゆく。
それぞれにゆがみを抱えながらも大人になってゆく。
不可避的なことであれ、親と言うものの怖さと罪深さを少しは心していることは、だいじなんじゃないかな、と思う。
私もまたぐっと心して、子どものいる素晴らしい生活を噛み締めていきたい、と思った。
テーマの話に終始してしまったが、エンターテインメントとしても楽しめて好感の持てる、スタイリッシュな映画だった。マクギー&シーゲルコンビの次回作が楽しみ。
そしてやはりジュリアン・ムーアは大好きな女優さんだ。精神的にあやうい女性を演じさせたら彼女の右に出る者はないなーと思う。
そして、ジュリアンの恋人役を演じた、アレクサンダー・スカルスガルトのなんちゅうナイスガイぶり、格好良かったーー。
また、作中のメイジーの着ている洋服がとっても洒落ていて、可愛かった!衣装のステイシー・バタットは、マーク・ジェイコブスの元アシスタントで、アニー・リーヴォヴィッツなどとファッション写真の仕事もしていたとのことで、なるほどーと納得。
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