北の国からのドラマの生い立ち (オリジナル)
北の国からのドラマは名作ですね
あのドラマは皆さまもご存じ倉本聡さんが原作と脚本を手掛けておられます。
倉本氏はもともと東京生まれの東大出身の江戸っ子でした。前略おふくろさまなどで既に全国区になってはいたものの、北海道へ移住と考えたのは都会の当時(バブル直前)の使い捨ての生活、物の豊かさが幸せという人々の考えから疑問を感じて、移住を決めたのです。移住するなら北海道。そして10年、北の国からを執筆するまでに時間をかけて北海道に溶け込んでいきました。その間も北海道のラジオドラマや北海道ドラマを手掛けていたのです。奥様にはいざとなればダンプの運転手をして稼ぐから信じてくれ、と説得し、女優さんでもあった奥様は東京と北海道を行ったり来たり。執筆までの10年の間に地元の人から様々な実際に起きた北海道の開拓話を取材していったのです。その当時は、樺太を舞台にしたドラマや、元々、倉本氏がラジオドラマ出身ということもあって様々なラジオドラマを地元の人と製作しています。
音にこだわった訳
ラジオドラマで音にこだわった製作をするなかで、一方、北の国からでは無言の場面が多くみられます。しかし富良野の人たちは実際はあれほどシャイではありません。そこは倉本氏が強調して書かれているのです。無言のなかに人の心のメッセージが宿る、それが彼の真髄です。不器用な黒板五郎と息子の純ちゃんや娘の蛍ちゃんとのやりとりは、大自然の中で厳しい冬の雪や寒さに戦いながら、時に素晴らしい夏の風景に溶け込みながら、子供たちの成長と共に親子関係もシリーズを通して変わっていきます。音にこだわるということは無音の音を大切にしたかったのです。静けさの中から伝わるものを大切にしていたのです。静寂の中であの親子は成長していったのです。
22年かけて北の国からが、伝えたかったこと
22年もの長きに渡りこのドラマのナレーションは一貫して純ちゃんでした。純ちゃんの成長とその家族の絆、そして都会が忘れてしまっている大切な、ただ生きることに生きる、姿勢を父親(これは倉本氏だと断言しても過言ではない)が見せて視聴者に今、大切なことを忘れていませんか、と常に問いかけてきたことです。東京と地方(北海道)を常に対峙して倉本氏は描いてきました。都会は、、、都会は、、、。もしかしたら少し、東京を余りにも存在価値のない場所とまで考えておられたのかもしれません。純ちゃんのセリフの中に「東京は卒業した」とでてきます。雪子おばさんも東京での不倫生活に疲れ果て五郎を頼って富良野にやってきます。都会と地方、暮らす場所で人の価値観は違ってきます。住むところをよく考えてくれよ、と倉本氏は投げかけていたのかもしれませんね。
裏話その1
ドラマには演出家の名前も勿論、表示されますね。しかし実際には倉本氏は演出家承諾のもとでかなり演出に口をはさんでいた様です。それから普通のドラマに比べて何度もシーンの練習を重ねます。なるべく演技者が感情移入しやすいように、まとめて同じ場所でのシーン撮りはしないようにして、脚本の流れに沿うようにして撮影が進んでいきました。若い時の倉本氏はかなり神経質な人だったのです。そのなごりが北の国からでも、少しの演技のことでもこだわり、演技者に注文を出すといったことが普通でした。横で正式な演出家がいる訳ですけれども、そこは倉本氏の意見を優先したようです。
裏話その2
倉本氏が北の国からを本格的にシリーズ化してから、彼自身、また新たな挑戦をしています。それは俳優塾そしてシナリオライター塾を富良野でログハウスを手作りして経営していくことでした。それは富良野塾と呼ばれましたが、普通の俳優塾と違いオーディションに年齢制限がありません。夏は酪農家、農作業の手伝い、冬は倉本氏の指導を受けて舞台を作りあげて全国を巡演していました。今は閉塾されていますが当時は北の国からを見た視聴者が富良野塾に集まり、皆で共同生活しながら、ある時は北の国からのドラマにもエキストラ的に出演の機会が設けられました。勿論、全員ではありません。が選ばれた者がシリーズ化した北の国からの出演が可能になったのです。本人たちはどれだけ嬉しかったでしょうか。
裏話その3
塾生の中には65歳の男性もいました、倉本氏より当時、年上でした。65歳の男性の体験談なども実際にドラマ作りの参考にしています。また、富良野の地元の人たちから取材したことも北の国からでは、シーンとして使っています。例えば、雪子おばさんと純ちゃんが冬、雪の吹き溜まりの中で車が動けなくなり、そのうち二人とも眠ってしまう、、、周囲は必死になって雪に埋もれた車を探すのだけれど見つからない。そこへ馬ぞりがピタリと雪の積もった車の前で止まる、それでなんとか凍死せずに2人は救出される、あのシーンは実際に取材して起こった本当の実話だということです。今は開拓時代に世話になった馬のことを忘れて車に頼るようになったけれども、いざとなれば馬のほうがはるかに優れているということも伝えたかったのでしょう。それはつまるところ、北海道の開拓時代の人の苦労を忘れなさんなという、もうひとつのメッセージも込められていたのです。
追記
今、あの富良野の麓郷のロケ地は有料化されて見学することができます。一時期はあのロケ地やラベンダー畑見たさに観光客が殺到しました。しかし、行かれた方は、またドラマでもお分かりになるかと思いますが、かなりの丘陵地帯です。そうです、畑なんです。最初からラベンダー畑に辿り着いたわけではないのです。色々な作物を試して試行錯誤しながらフランスの地に似た土地柄、ラベンダーがいいのではないかと初代の富田ファーム(ラベンダー畑主)はできあがりました。その前にもっと重要なことはあの畑はすべて、内地から送られてきた人たちが開墾して一つ一つ木を伐採して岩をどけて苦労に苦労して農地にしたのです。美しい田園風景ですが、その裏には彼らの渾身の開拓精神があったことをわすれてはならないでしょう。
畑を見に行けば、規格外の人参は収穫されず土に放っておかれています。それも大量に。規格外でも味は変わりません。消費者が中々そういったものを買ってくれない現状があります。最近では食品ロスの問題もでてきているので畑で眠ってしまう作物もなくなればいいですね。また、あそこは地元の人に言わせれば観光地ではなく農地です。倉本氏自身は商工会議所の人と懇意にしたりして、富良野をもっと人に見てもらいたいという時期もあったのですが、地元の人に言わせると賛否両論でした。富良野塾が閉塾した事と共に北の国からも終わりを告げ、今、富良野はいい感じで少し静かになっていることでしょう。くれぐれもマナーを守り、ロケ地は観光したいものです。
願わくば、北の国からはもっと続いて欲しかったという方もおられるのではないでしょうか。黒板五郎が介護が必要に成る位まで、人間の老いを撮り続けて欲しかったと願うのは酷でしょうか。その時、現代の親の介護問題と純ちゃん、蛍ちゃんが父親とどうやって最後まで過ごしていくかがリンクして、新しい北の国から、のドラマが出来たのかも知れません。いかんせん、倉本氏もご高齢です。続きの北の国からはそれぞれの視聴者の心の中にずぅっと想像されて続いていくことでしょう。いつまでもこの名作が残り、語り継がれることを祈って止まないですね。
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