様々な人々の思いが交錯した作品。
魍魎と鬼の違いとは・・・?
作中内では、中野の古本屋である「京極屋」店主・中禅寺秋彦(ちゅうぜんじ あきひこ)により魍魎と鬼の違いが語られている。中禅寺は、安倍晴明を祀る神社の宮司であり、憑き物落としを副業としている陰陽師のため、語られる解釈は専門書や古文書に沿ったものが多く、非常に独自性を感じられる。
魍魎は『罔両』や『方良』と記すことが可能であり、捉えどころが無く、鬼より古きに存在し、方角の縛りも異なると解釈されている。悪しきものとして払われる対象が年月と共に魍魎から鬼へと変化した・・・故に、陰陽師の中禅寺にとって払いの対象としては厄介なものであるということで、作中にも苦戦している場面が見受けられる。
また、中禅寺は魍魎のことを「墓穴や四辺の淵、それは深く深くあの世へと続く深淵の入口だ。そして、ここにはぼんやりとした、影ならぬ影。すなわち、魍魎が出来る」とも解釈しており、この解釈は登場人物達が陥っていた現状を説明するのに実に的を得たものだと感じている。
あの世とこの世の境界。そして、異常と正常の境。
「淵。すなわち、あの世とこの世の境界にわく、何か禍々しいもの。それが、魍魎の原初形態じゃないのだろうか」―――中禅寺は、そう作中にて魍魎を定義づけているが、そもそもあの世とこの世の境界とは何か。
あの世とこの世を二分するのには、そこに人の意識というものが存在するのではないだろうか。『この世』は目に見える部分の世界であるため認識も容易であるが、一方で、『あの世』とは一般的に死後にいくとされる世界であるために捉えどころの難しい世界であろう。もしかしたら、捉えどころのない存在の魍魎は、その境を行き来するのかもしれない。
正常と異常というものもまた、人の意識によって定義されるものなのではないだろうか。登場人物の一人である、小説家の関口巽(せきぐち たつみ)も一種の妄想にふけこむ気質(鬱病によるものが大きいと感じる)があるため、正常と異常の狭間を行き来する者ともいえるかもしれず、境界を行き来する魍魎と思しき『通りもの』にあてられやすい存在であるとも言えるかもしれない。
新人小説家・久保竣公(くぼ しゅんこう)も職業上、関口と似通った気質を持ち合わせていたことから通りものにあてられやすかったと理解できる。通りものにあてられ、彼が異常へと傾く一方で、関口が異常の深みにはまらなかったのには、周囲の人々(特に、中禅寺秋彦の存在)との繋がりが大きいのかもしれない。
古代文明における匣、近代文明における匣
科学や医学の発展と共に、次第に曖昧で捉えどころのない魍魎や鬼は忘れられていく存在となっていたであろう。『魍魎の匣』は文明発展の著しい時代を舞台背景としており、その時代に拮抗する古のものと新しきものの存在の在り方、変化する技術と共に人の心も移ろっていく様子が、見事に描き出されていると言えるかもしれない。
古代文明における匣は、古来より人々によって様々な意味を持ち、その中身を変容させていったと思われる。作中の箱の大きさは、中に存在するものに似つかわしくない小さなものがよく出てきていた。柚木陽子の父であり、近代医学を研究する医師の美馬坂幸四郎(みまさか こうしろう)は、楠本頼子の不死のために膨大な大きさの匣を作成したが、先進文明を使っても人の意識はその原型を保てないという矛盾を示している様にも感じた。
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