映画が書物を裏切らず、書物の虜にならない爽快さを描いた珠玉の作品 「読書する女」
声の美しさを生かして、人に本を朗読するという仕事を始めたミュウ=ミュウ演じる主人公は、新聞に公告を出し、5人の客を得た。しかし、それぞれ事件を起こしていく。そして、最後に判事の家で読むことになったのが、サドの小説だった。身の危険を感じながらも、読み始めるミュウ=ミュウだったが-------。
書物と映画との幸福な出会いを保証する映画とは、どんな映画だろうか? -------。イタリアで最初刊行されたが、当時のソ連国内では発禁、その上ノーベル賞受賞、そしてその辞退、とスキャンダルに覆われたパステルナーク原作の「ドクトル・ジバゴ」と巨匠デヴィッド・リーン監督との出会いだろうか。
それとも、性と道徳の問題を正面から扱ったトルストイ原作の「アンナ・カレーニナ」とそれを神秘性と官能の匂い立つ作品に自立させたグレタ・ガルボとの出会いだろうか。あるいは、「惑星ソラリス」でのスタニスラフ・レムとタルコフスキー、あるいは「風と共に去りぬ」でのマーガレット・ミッチェルとヴィヴィアン・リーの出会いだろうか。
しかし、映画が複数の書物の間を擦り抜けていきながら、書物を裏切らず、しかし、決してどの書物の虜にもならない爽快さを言うなら、このミシェル・ドヴィル監督の「読書をする女」の右に出る作品はないと思う。
ミュウ=ミュウ演じる主人公が、その美声を生かして人に本を朗読するというちょっと変わった仕事を始める。この映画の爽快さは、5人の客に朗読する本の内容が、実際に出来事として追いかけるように生じてくることだ。モーパッサンの短編やボードレールの詩を読んでもらう身障者の少年は、それらの内容そのままに、目の前で朗読するミュウ=ミュウの魅力に失神してしまう。
マルグリット・デュラスの「ラマン(愛人)」を読む中年実業家とはついに愛人関係に。上流階級の貴婦人には、レーニン、マルクスの一説を読むが、気がつくと、レーニンの誕生日を赤旗で祝い、デモ行進までしてしまう。そして、一人っ子の少女は「鏡の国のアリス」を読んでもらうが、少女はアリスよろしく、まんまとミュウ=ミュウを遊園地へと連れ出してしまいます。
そのうち、一種の売春行為ではないかと、ミュウ=ミュウは検挙され、判事の家で本を読むことになりますが、それはなんとサドの小説の一説だったのです。今までのパターンでいくと、ミュウ=ミュウの体に一万一千本の鞭の嵐が降り注ぐのだが-------。
この作品は、書物の内容を映画化した作品ではありません。書物の持つ薫りだけを、ミュウ=ミュウの魅力に任せて映画化したものだと思う。慎ましやかに書物を"身振る"、その恥じらいの初々しさゆえに、書物と映画との幸福な出会いを経験できる稀有な作品となっていると思う。
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