これはサスペンスではなく、そして象徴主義的なモラトリアムの成長譚ですらなく - 白い家の少女の感想

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これはサスペンスではなく、そして象徴主義的なモラトリアムの成長譚ですらなく

4.04.0
映像
3.5
脚本
3.5
キャスト
5.0
音楽
4.0
演出
4.0

目次

何はともあれ

作品のテーマやら何やらと、制作陣の込めた思いを語るよりも先に、まずはジョディ・フォスターのずば抜けすぎた美貌を語りたくなる、そんな映画、「白い家の少女」。お若い頃からまあなんと麗しいのでしょう。作品のテーマや深い考察に興味がない方でも、ジョディ・フォスターの人形も真っ青な完璧美少女ぶり目当てに視聴してもまず損はないと言えるくらい半端じゃない容姿の端麗さである。またその演技のうまいことうまいこと……これほどまでに女優になることを宿命づけられていた人間を筆者は知らない。

映画というジャンルにおいて、主演の容姿の集客力というのは、本筋には関係なくともどうしても求められてしまう重要なファクターである。本作が名作の一つに数えられる理由の中には、確実に彼女のあの綺麗すぎる容貌が関わっていることを筆者は疑わない。というか、筆者自身この映画を見た切っ掛けがジョディ・フォスターだったわけでありまして……。

しかしもちろん、この映画は主演女優の美しさだけの映画ではない。ここから先は、主演の美貌に釣られた者の礼儀でもないが、初見ではわかりにくい本作のシンボルやメタファー部分を色々と解説、及び考察をしていこうと思う。

一見ではよくわからない?

本作はジャンルで言えばミステリーやサスペンスと呼ばれる類のものであるが、あらすじ部分だけ見れば、なんとなく盛り上がりに欠けた中途半端な印象の映画である。ジョディ・フォスター演じる白い家の少女リンが、父親がいない(すでに死んでいる)ことを隠しながら、周りや大人を騙し続け、手品師の男の子と秘密を共有してイチャイチャし、最後には自分に手を出してくるフランクを、かつて母親に対してそうしたように毒殺する……そんなお話だ。無論、ここまでの部分だけでも、自分の領域を守るために、大人たちと戦う強い少女の物語とも取れるが、それだけではやっぱり、この映画はただのジョディ・フォスター主演映画だ。本作の真の魅力は、キャラクターや場所など、随所に込められた様々なモチーフの中にある。映画の小道具や演出が暗喩する一つの物語を感じ取れなければ、本作は凡作でしかないだろう。

テーマがわかれば色々と見えてくる

本作のテーマはズバリ言えば、リンという一人の少女のモラトリアム、及びそこからの離脱であるというのは、一度の視聴でもなんとなく察せられることではないだろうか。実は、これを念頭に置いてさえいれば、本作に込められた様々なメタファーは容易く看過できるだろう。まずは、快適な自分の家と、三年分をあらかじめ用意された家賃。これがそもそも直球でモラトリアムの象徴であることは疑うべくもないだろう。そうとくれば、「白い家」が指し示すものもまた語るまでもない。タイトルの、白い家の少女はそのまんま、モラトリアムの少女の読み替えることができるわけだ。だがしかし、思春期の少女にしては、やることが過激すぎないかというご意見もあるかと思う。夫人の死を隠したり、毒殺したり……ちょっと、度が過ぎてるのではないかと。これに対する返答はこうなる……本作は、ストーリーを「実際的に」見るお話ではない。本作は演出から脚本から何から何まで、象徴主義的な作品であることをまずは理解しなければならない。

指し示すもの

本作の中において、少女リンは殺人を犯すわけであるが、それに対して道徳で語るのはナンセンスである。殺すということが指し示している、心理的な側面が何であるかを考えることがまずは大事なのだ。先に述べたように、本作は少女のモラトリアムにおける成長の物語だとすれば、殺すということは、すなわち、手放す・決別することを意味すると考えられる。では、思春期に少女が手放さなければいけないものとは何か。無論、一つは親への依存であろう。ならば、リンが母を毒殺したという事実はそのままのニュアンスで受け入れることができるのではないだろうか。思春期の少女は、母を拒絶した。しかし、完全に手放せたワケではない。なぜなら、その死体はずっと「白い家」の地下に残されていたのだから……。では、それを見つけて、死んでしまったハレット夫人は何を象徴するか?彼女の死は、リンに積極的な行動を促したという意味で、折り合いをつけなければいけない「事実」と呼べるかもしれない。自首するにしても隠すにしても、それはリンに何か新しいことを強いたのだから。その結果彼女はマリオと出会う。彼の肩書は、手品師……すなわち、奇術師であることもまたいかにも暗喩的だ。彼はリンと秘密を共有し、母の死体を埋める手助けをし、仲良くなり肉体関係を持ち、言い寄る男を追い払ったりと、何かと手助けをしてくれる心強い味方だ。そして彼は、大切なときにはまたいなくなる。マリオは、親に代わり自分で見つけた、新たな拠り所、すなわちパートナーなのだ。

では、フランクは……あのいやらしい男は、どうだろう。この物語の締めを括った彼が、ただ鬱陶しいだけの存在とは考えにくい。

父親

母を殺したリンではあるが、しかし彼女は父親を殺したわけではない。父親は勝手に死んでしまったのだ。だが、病死ではない。入水自殺である。ストーリーラインの観点のみで見れば、自殺であれ病死であれ大した違いはないのだろうが、象徴主義的な本作においてはそれもまた考察せねばならない重要なファクターとなる。詩人たるリンの父は、自殺した。それは自らの手で、娘の依存を断ち切ろうとする親としての意志の表れであり、リンが成長を始める大切なきっかけであるわけだ。しかし、リンは父親の影を拭い切ることはできていない。なぜなら彼女は父親を殺していない=手放していないのだから。リンが本当の意味で自立するためには、どこかで彼女は父を殺さなければいけないのだ。あ、もちろん字面通りには受け取らないでいただきたい。本作では手放すということのメタファーとして、そのまま殺人は使われているのだから。
そう考えると、本作のラストが大人の男を殺すシーンであること……そして、死んだ男を見つめるリンのアップが長く続くことは極めて意味深である。そう、フランクという男は、リンを害する嫌らしい敵意のメタファーであり、汚い大人の象徴であると同時に、彼女にこだわり、しがみつき続ける父親の隠喩でもあったわけだ。

ここであえて、ストーリーに戻ってみる

以上が、本作の簡潔な考察である。もちろん、異論もあるだろう。筆者自身が、本作を最初に見て感じたことと上記の考察には、実は明確なズレがある。筆者の本作の印象は、「大人の目の届かぬところで起きる、心は純粋なままで逸脱していく冷血な子供」であった。そしてまた、筆者はこのアイデア自体は正しいものだとも感じられる。なぜなら本作のシナリオを真っ直ぐに追えば、行き着く感想はそれのはずだからだ。なんだかこれまで書いてきた考察とは真反対なことを言っているなと感じられるかもしれないが……実は、この考察と前記の考察は矛盾せずに共存することが可能である。そしてそれこそが、この場で筆者が述べたかった大きなテーマであったりする。すなわち、いつだってモラトリアムの子供たちの中に起こる逸脱した行為というのは、正常な成長のための精一杯の努力の不格好な表れであり、本作はそれを、少女の心の成長の象徴化というテクニックと、流血・防腐処理・肺炎・青酸カリなどの具体的描写を絡めた事実のシナリオの演出という二重の表現で見事に描写してみせた映画、と言えるのではないだろうか……と、いうことだ。

行為は暴走を始め、なれどその心は清らかなまま……。

人はいつだって、逸脱した行為には逸脱した意思があると考えてしまいがちだ。しかし、心というものに悪はないのだ。はたから見てどれだけ残酷で不道徳な行為でも、子供たちの心のなかでは、それはいっぱいいっぱいな頑張りの結果かもしれない。罪を裁くのはもちろん大切だが、その前に、まずは彼女らの心に向き合おう……本作には、そんな温かいテーマも込められているのかもしれない。

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