クイズという形態を取った「管理型独裁システム」の甘美な危険性
目次
「完全に管理され」、「面白過ぎる」クイズ番組とその背景
太古の昔から今日に至るまで、様々な国家や共同体が作られ、隆盛し、そして滅んでいきました。国家や共同体には統治のためのルールが存在し、人々の総意や強権、あるいは専門家たちの設計によって、これまで無数の運営システムが作られてきました。
そして、本作の舞台となった日本では、憲法を含むあらゆる法や規範の上に「クイズ」が存在するという形が取られています。勝者には望むあらゆる物が与えられ、敗者は重罪人として場合によっては何十年も牢獄で懲役を受けなければならない、いかにも典型的ディストピアであるにも関わらず、人々はクイズに熱狂し、場合によっては些細な願い事を叶えて貰うためにさえ命を懸けてきます。
もちろんこの社会体制は、今日の私たちからすれば荒唐無稽な話ですが、本作が「もう一つの日本」を舞台にしているからには、どうして作中の国民たちがハマってしまっているかの部分にも連続性があります。
何故、決勝で敗北すれば重罪人というリスクを承知で参加するのか、どうして悪趣味の極みでもあるような番組が絶大な支持を得ているのか?
第一にはこのクイズ番組の「本気度」が他のあらゆる番組より高く、それ故に「面白さ」と「関心」が高まっていることが考えられます。通常のTV番組などで行われるクイズ番組も確かに勝負ですが、通常の番組の枠内である以上、商品は限定的で、負けた際のペナルティーもごく限られたものに留まります。
しかし、あらゆる枠を取り払った「国民クイズ」は勝敗の結果は激烈で、番組から生じる熱気は極めて強く、かつ危険です。何しろ出場者が自分の処刑を望んでいるかも知れない、という領域でもあるわけで、賛否はどうあれ番組への関心は誰であれ極めて高くなっていきます。
もう一つは、あらゆる欲望を受け入れているように見えるこの番組が、極めて強力な「管理」のもとに成り立っているという点です。もちろん、あらゆる欲望を認容する国民クイズの趣旨からして誰のどんな要求も一応はテーブルの上に乗せなければなりませんが、合格かどうかを判断する点数付けは番組側に委ねられているので、難しい要求の前に壁を作ることはできますし、心理的な壁もまた強力です。
決勝まで行って失敗した際の危険はもちろん、番組に出た段階で自分の顔と名前、要求の内容がテレビに大写しになってしまうのですから、そうそう妙な要求は提示しにくい形になっています。最終的に合格できるのはごくわずかな人に限られ、よしんばリクエストが通った後も人生は続いていくわけです。
と、なると、一見突飛に見える願いも、国民の倫理や本音とかけ離れたものにはなり辛く、結果体制側は比較的安心ということになっていきます。そして、大金や夫の不倫問題の解消といった分かりやすい本音を解決してくれるだけに、視聴者は番組に嫌悪を抱くことなく熱狂の度を強めるということになっていきます。
「時限的単発独裁」によって問題解決が不要になった「無責任」国民クイズ体制の甘美な恐ろしさ
本作における「国民クイズ体制」は、今日の代議制民主主義、議会政治とは真逆の思想によって成り立っています。番組の司会であり主人公でもあるK井K一は「4時間の合法的な革命」と番組を紹介しています。
かつて国民クイズで敗北し、刑の一環として司会者をやっているK井の言葉ですから、政府が容認した価値観でもあることが分かります。また、国民クイズ省は「あなたのための全体主義」を掲げています。つまり国民クイズ体制は物事の根本が変わる革命を容認するファシズムという一種本末が転倒したシステムでもありますが、種々の問題にも関わらず、まったく新たな政治状況を示してもいます。
それは「無責任でいい」ということです。
本来、何かを起こせば責任がついて回るものです。政治的な分野ではなおさらのことで、「○○ができるような世の中にしたい!」と政治の世界に進み、あるいは革命を起こして実権を握ったとしても、それですべて完了とはなりません。通常、目的が達成されたとしても、引き続き表舞台で責任を果たさなければなりません。
しかし、たった一つの願いを無条件に叶えるという「単発式革命」の国民クイズシステムの場合、責任を取る必要も、責任を取る方法もありません。
そのため回答者たちは、「自分のやりたいことだけを実現させて後は知らんぷり」という、現代の独裁者ですらできなかったことをやれるようになっているのです。
この無責任さは本作における日本政府などの国民クイズ体制を取る国々にも共通するものだとも言えます。政治や体制に問題が増えるほど市民の悩みは増えていくものですが、そうなればなった分だけ、国民クイズにぶつけてくる不満や要求の種類は多様化し、本当に不都合な状況からは遠ざかるからです。
例えば貧困や病気、借金などの問題で苦しんでいる人が増えるほど、「国民クイズ体制の放棄」という本当の急所が提示されることは少なくなり、難易度が上がれば合格基準点も上がっていくため、「国民皆の食糧問題解決」ではなく「自分の食事を良くしろ」との要求提示に変わっていきます。実際、本作では物語の本筋に挟まれる形で、いくつかCMが流れていますが、政府が流しているにも関わらず、問題が生じていることを隠そうともしていない描写が目立ちます。これはあえて「不満を抱かせる」という情報工作を行い、関心を根本からずらしていると見ることもできます。「教育の改善」を求める人が増えれば増えるほど、その大元でもある「国民クイズ体制打倒」には至らない状態でクイズに望む形になるわけです。
つまり、国民クイズ体制というのは革命をうたってはいるものの政治の不作為を全力で容認する形になっています。何しろクイズ番組で、同じような悩みを持つ十万人のうち一人を救ってやれば、ガス抜きができるのですから、私腹を肥やしたい支配者にとってこれほど甘美で危険なシステムもないでしょう。
本作では内心現状に痛烈な不満を抱いているK井を巻き込む形で、クイズによって独立した佐渡島政府と日本政府、そして反乱勢力が入り混じった混沌を経て武力衝突に至ります。
まさしく理性と本能のせめぎ合いのような様相でしたが、ひとまずは「本能」が、クイズ体制の存続を望む声の大きさが勝利することになります。それは単に自分の思い通りに何かをするというだけではなく、本来、行動に伴う責任を取りたくないという救い難くしかし説得力のある部分が上回ったからかも知れません。
日本がひたすら強かった「あの頃」の空気をも内包している
本作が登場したのは1993年、後に言われるバブル崩壊の直後で、まだあの好景気の余韻を十分に味わうことができた頃でしたし、再販版の杉元氏による後書きによると、構想自体はもっと前からあったものだったそうです。
そのためか作中の日本はひたすら強く、恐ろしいほどの核軍事力と経済力を背景に世界中を支配しようとしています。現在の日本からすれば、国民クイズ体制と同じぐらい荒唐無稽に思えてしまえるのですが、当時の上がり続ける株価と地価、就職説明会に行っただけでも万札が、的なエピソードに代表されるほどの景気の過熱ぶりは、本作のような情勢を幻想させるほどのものだったと言えます。
しかし、その一方で不満は少なくありませんでした。過労死問題や通勤地獄、マイホーム問題等々、難しい課題が山積していたことも事実で、「あの頃」から進展したと見られる本作の日本においてもホームレスがアーケードにずらりと列をなすなど、決して皆が幸福でない情景が挿入されています。それはまさしくバブルの影というべき要素であり、クイズや全体の展開が華やかな分だけ、鮮烈な印象が残りました。
原作者の杉元氏は再販された2001年版の後書きで、「この作品を読み返しても、不思議なことに違和感がない」と記していますが、2017年にまた改めて読んでみた私の目にも、残念ながらというべきか、未だに違和感を覚えることはできませんでした。
景気の拡大が叫ばれる一方で非正規化が進み、少子高齢化は人口の減少にまで達し、格差をなかなか是正できない現在日本において、国民クイズ、に近いものが生じた時、世の中は一体どのような反応を見せるのでしょうか……。
万事賑々しく騒がしい、テンポも激しいですが、じっくり見ていくとその中に強烈な乾きや不景気への予感を感じさせる部分が存在する点も興味深いと言えるでしょう。
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