ポール・ゴーギャンがモデル?「月と六ペンス」 画家・ストリックランドの人物像を考える - 月と六ペンスの感想

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月と六ペンス

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ポール・ゴーギャンがモデル?「月と六ペンス」 画家・ストリックランドの人物像を考える

4.54.5
文章力
5.0
ストーリー
5.0
キャラクター
5.0
設定
5.0
演出
2.5

目次

主観は「私」。奇才の画家 ストリックランドの数奇な半生

タイトルは誰しもが聞いた事があるだろうと思われる、イギリス小説の名著です。

ストリックランドはイギリスで銀行マンとして働いており、家族と順風満帆で幸せな生活を送っている、と、周囲から思われていましたが、ある日突然、家族を捨てて出奔してしまいます。

主人公の「私」は、ストリックランドに逃げられ悲嘆にくれる夫人に同情し、彼の出奔先であるフランスに赴きます。

「私」や夫人だけでなく、誰しもが、ストリックランドは若い女と駆け落ちしたに違いない、と思っていました。

しかし「私」がどう探り入れても、彼に女のカゲはなく、「金がない」と言って、みすぼらしい姿で「私」に応対します。証券会社に勤めていた頃の無口で勤勉な印象とは対照的に、斜に構えた態度で「家に帰るつもりは無い」と断言します。

私が「なぜ家庭を捨てたのか?」と問うと、「絵を描くためだ」と答えるのでした。

ポール・ゴーギャンがモデルとされる「ストリック・ランド」の強烈な個性

この小説が、作中では常識人である「私」が語り部でなく、主人公ストリックランド本人であったら、読者には全く受け入れがたいものだったと思います。

2017年本屋大賞受賞、直木賞受賞の恩田陸著作「蜂蜜と遠雷」では、ピアノを持たない凄腕ピアニスト「風間塵」が、メインキャラクターの一人ですが、ストリックランドもそんな感じです。

異才は大衆の目線と言うフィルターが無いと、意味が分からないし、作品は混沌とするばかりでしょう。

そして、異才「風間塵」に対し、その演奏スタイルはクラシックへの冒涜だと、聴者は感じたように、「私」がストリックランドに対し当初は「拒絶」を示しました。

ストリックランド夫人に、不誠実ではないのか。愛情はないのか。責任感は。罪悪感は。

しかし、ストリックランドは、世に生きる人の大半が寄る辺にする家族に唾を吐きます。

キャリアを捨てて、未知・無学の道である画家として生きることを、固く決意しています。

長年勤めた会社や家族だけでなく、自身にも全く利の無い道。五里霧中どころか、一里も先行きが見えません。

「私」は当然、女がいることを隠すための詭弁だと疑っています。

パリでストリックランドと交流を続けるうちに、彼が本当に「過去を全て捨てて画家になった」と知り、驚きます。

「月と六ペンス」というタイトルについて、「月」は、ストリックランドが目指したものであり、「六ペンス」は語り部の「私」が説く現実です。

現実というのは、働きアリのようにアクセク働いて、小金と社会的肩書きを得て、人並みに幸せになる、という事でしょう。

しかし、対して「月」の意味するところが、一攫千金で大金持ちになり、両手に余る美女を侍らせてウハウハに暮らす、ということかというと、そうではありません。

ストリックランドは、ラストにおいてタヒチでライ病に罹り、頓死しています。

彼の遺作である壁画は遺言通り燃やされますし、畏敬を欲する人は多くとも、ストリックランドのように、世の中を睥睨し、家族に看取られたくない・自分が生きた証左を残したくないと感じる人は少ない筈です。

ストリックランドは、その半生を、敬虔なキリスト教徒のように、自分の信じたものに忠実に生きました。ただ彼が信じたものは、女でも人並みの幸せでも、地位でも名誉でも金でも無かったのです。

「月」はストリックランドが信じたもののメタファーであり、それが何かは、読者によって違うのだと思います。

嵐のようなストリックランド。その本質はどこにある?

ストリックランドに中って、大なり小なり害を被った人がたくさんいます。

夫人とその子どもたち、現代で言うイラストレーターのようなストルーヴ。その夫人。

「害を被った」と言うと、ストリックランドがいかにも悪役のようなものですが、彼は加害者と言うより台風とか津波のようなもので、彼は終盤において「私」を含めた大半の登場人物に受け入れられます。

ストリックランドを天災に喩えるとしっくりくるのは、タヒチでの彼の現地妻・アタが、彼を最も自然に受け入れ彼を愛しているからです。

私淑する池澤夏樹という作家のことばを借りますが、天災に見舞われた、とか、襲われた、というと、あたかも自然が意志を持って人に害を為したかのようです。

しかし、そもそも自然は人に関心が無いように、ストリックランドは傍若無人ではあるものの、人や生き物を積極的に害する気持ちは全くありません。

ストリックランドには信仰こそないものの、俗世への欲を捨てた僧侶のようでもあり、ある一面では無責任だのに、『高貴』にも見えます。みすぼらしいのに美しい。無視したいのに目が離せない。

ある意味では、人の気分を害するストリックランドですが、最近の「競馬で負けてむしゃくしゃしたから、子どもや猫を傷付けた」なんて人間とは、一線を隔しています

ストリックランドは月を目指し、その浮世離れした姿勢を見届けた人たち。「私」やストリックランド夫人、ストルーブ、ストルーブ夫人、アタの視線を通して、小説の終盤に、やっとストリックランドという人物の全貌が垣間見える・・・ような気がする。

「月と六ペンス」は、そういう小説です。

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