魔女狩りは今でも続いている - クルーシブルの感想

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魔女狩りは今でも続いている

3.03.0
映像
3.0
脚本
4.0
キャスト
4.0
音楽
3.0
演出
3.0

目次

ダントツで怒りが収まらない映画

この映画は1997年に公開されたので、2017年現在から考えるともう20年も前の作品です。それ以降色々な映画を見てきたつもりですが、未だ私の中では「視聴後に怒りが収まらなかった映画:歴代ダントツ1位」を誇っています。

しかし悔しいことに、沸いてくるのは怒りだけではないのです。感動もあるのですよね。だからこそ忘れられず心にこびりつく映画なのですが、20年経った今自分も大人になったので今一度この映画について考察したいと思います。

魔女狩りの核心とは何か

この作品は17世紀末に米国で実際に起こった魔女狩り裁判を描いたものですが、まず日本人にとって魔女という概念がイマイチすっと入ってこないですよね。

そもそも悪魔や魔女は本当に存在するのかという根本的な疑問にまで遡ってしまいそうなのですが、この魔女という言葉は旧約聖書の女呪術師「メハシェファ」を語源としており、ここでは「魔法を掛ける」「魅惑する」という意味合いなのだそう。魔女として訴えられたのは、貧しく教養がない女性、もしくは友人が少ないなどの特徴がある人だったそうですが、友達が少ないだけで魔女判定されてしまうなんてもはや言いがかりもいいところですよね。
しかしこの裏には反キリスト的思想を排除するといった思惑が少なからずあったようです。つまりマイノリティは魔女の烙印を押される可能性が高かったといえます。

魔女の烙印を押された人は、魔女狩りという正当な理由を持って、自白のための拷問を受けたり、この作品にもあったような処刑をされたりしました。ウィキには「法的手続を経ない私刑等の一連の迫害」という一文もあります。

個人的には、相手が本物の魔女でない限り魔女狩りは全て私刑と変わらないのじゃないかと思います。この映画でも単なる私怨がもとで集団ヒステリーが起こり、罪のない人々が魔女として処刑されます。一見正しい告発をして悪人を罰している構図に見えますが、結局はただの私怨です。「この人がムカつく」から始まった「私は正義でこの人は悪だ」という感情です。

不安な時代だから正しさを追求する

ところでこの魔女狩りが行われていた時代というのは、社会的にも宗教的にも大変革が起こっていた時期だそうです。その為人々は精神的に不安になっていたのですね。

歴史を振り返ると、例えば戦争をしている時代というのは人々は不安に駆られています。そういう不安感が渦巻く時代は、とかく「正しさ」が判断基準になりがちです。個人の、良いとか悪いとかいった感情よりも、これは正しいことか否かが大事なのです。
ではその正しさの基準は誰が決めるのかといえば、社会全体です。その社会を形成しているのは多くの人々なわけですが、ここではなぜか多数決が採用されます。多数意見=正しいになってしまうのです。

しかしここで考えたいのは、その多数決で多数派だった人は本当に心からそう思っているのか、ということです。恐らくそんなことはありません。多くの人がそちらを選んだから自分もそれを選ぶという、ある意味人任せな選択をしている人が少なくないはずです。不安な時代だと自分だけはみ出すことは危険ですし、ならば多数派に追随する方が安全です。特に難しく思考しなくてもいいというのも理由としてあげられるでしょう。

つまり多くの人が本当に心からそう思っていなくても、正しさは勝手に形成されます。そしてその正しさはやがて「常識」になるのです。そしてその常識を基準として私刑が横行するのです。

現代版の魔女狩りは横行している

ところで現代ではたびたびtwitterやブログ記事が炎上することがありますよね。また、何らかのミスを犯した企業がその対応の如何によって炎上することもあります。

この映画のリアルタイム時である20年前はここまで気軽に自分の意見をネット公開するような土壌はまだありませんでしたからこのような考えには至らなかったのですが、今改めて考えると、この映画のアビゲイル達が罪のない人々を私怨から処刑していくというのは、ネット炎上に良く似ているなと思いました。

「これはおかしい!許せない!」と糾弾し大多数を味方につけることができれば、その意見は「常識」になります。常識はものすごいパワーを持っていて、良いとか悪いとかではなく、正しさという武器として相手を傷つけます。相手が降伏すればその正しさは証明されたことになり、同時に相手が間違っているということも証明されます。まさに魔女狩りです。

ちょっと重い例えになりますが、この構図はいじめにも似ています。「ムカつくから奥さんを呪おう」とするアビゲイルはいじめっこ、ジョンとその奥さんが実は無実だと分かっていながらも何も言わず黙って従っている村人たちはいじめを傍観する人々、魔女の烙印を押されたジョン達はいじめられっこです。

ちなみにこの映画、最後にアビゲイルは逃げますよね。そしてジョンは身の潔白の為に敢えて死を選びます。現実でもいじめっこが断罪されることはほぼありませんし、いじめられっこは真実を白日の下に晒す為に自ら命を絶つことがあります。あまりに同じすぎて皮肉だなと思いました。
17世紀末に起こっていたことが21世紀でも同じように起こっているのだから人間は成長しないものだなと思いますね。しかしこれも時代が不安定だからこそ深刻化しているのではないかと思ったりします。

明日のアビゲイルは自分かもしれない

かつて日本では、身分制度における穢多・非人と呼ばれる階級がありました。これらの階級は被差別階級とされ職業や生活などが制限されていましたが、そもそもこれらの階級の人々は最初からその階級だったわけではありません。当時の江戸幕府が、民衆の不満をコントロールするためにわざと劣位にあたる階級を作りだしたと言われています。これは第二次世界大戦のドイツとも似ています。元々は作為的だったものも、一旦常識化してしまうとその認識から逃れられなくなってしまいます。

アビゲイルは不倫関係におぼれ、ジョンとの関係を取り戻したいだけでした。たったそれだけです。自分の思い通りにするためだけに多くの人間を犠牲にしたのです。

さきほど魔女狩りとネット炎上は似ていると書きましたが、今の時代は自分がアビゲイルになってしまう可能性も十分にあります。誰かがムカつくという理由だけで、周囲を巻き込んで常識という既成事実を作りだし相手を追い込む…こんなことはおそらく簡単でしょう。

しかし今は21世紀なので、17世紀末よりはせめて進化していたいです。自分の主張を通すのも大切ですが、やはり相手の意見を受け入れる姿勢を持ちたいものですよね。20年ぶりにこの映画のことを考えたら色々恐ろしくなったので、自分にもそう言い聞かせたいと思います。

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