UCのニュータイプ論=人としての成熟が「分かり合う未来」を生む
目次
アムロとララァが見た「ニュータイプ」という未来、それは誰も描けない理想なのか?
「機動戦士ガンダムUC」(以下ユニコーンと呼ぶ)は、「機動戦士ガンダム」(以下ファーストと呼ぶ)からの流れでありながら、他のガンダム作品でほとんど深められなかった「ニュータイプ」という存在を真摯に扱った作品だ。
1979年放送されたファーストではアムロ・レイの戦争における極限体験を通して人類が進むべき道として「ニュータイプ」という概念を提起した。これはエスパーや超人ではなく「人間同士が分かりあうために相互理解の能力が高まった姿」だったはずである。
敵であるアムロとララァの精神が邂逅し、悲劇に終わるとはいえ、互いを理解しあう。
ララァは死んでしまったけれど、最終局面で仲間たちを守るためにニュータイプ能力をフルに使うアムロ、そして未来を担うべき新世代:カツ・レツ・キッカたちが皆も気づかないうちにニュータイプとして覚醒している。誰も載っていないコアファイターが遠くに飛んでいく、というラストは、人類はニュータイプとなってわかりあうことで戦争の歴史にピリオドを打つことができる、と予見させた。
この感動のラストから数年たって作られた「機動戦士Zガンダム」(以下Zという)は続編であるにも関わらず、ファーストが描いた進むべき道から、むしろ遠ざかっていることにファンは衝撃を受けた。ニュータイプは単なる超人として描かれ、覚醒したはずのアムロはいじけており、カツは覚醒どころか単なる自己中の権化になり果てた。
「人類の革新」を提起した富野氏は、それを忘れてしまったのか、そもそも信じていなかったのか、その後も「分かり合う未来」を全く描かない。
ファースト以降の「ニュータイプ」のい描かれ方
結局富野氏ですら描けなかった「ニュータイプ」は、劇中でも現実社会でも「理解しあうために感応する力が優れた人=人類を平和に導く希望」ではなく「便利な超戦士」としてしか認識されなくなっていく。実際のところ、カミーユやハマーンはまだしも、「死に際して人間の魂を異世界に連れていく」というパプテマス・シロッコの描かれ方は完全に当初提起された「ニュータイプ」の枠を超えている。
前述のZやその続編「機動戦士ガンダムZZ」(以下ZZと呼ぶ)でもニュータイプたちの邂逅シーンは描かれるが、ファーストが提起した「分かり合う人々」ではなく、思考で遠隔通信するツールに堕している。言ってしまえばハンズフリースマートフォン精神版、といったところか。彼らは「分かり合う」ことなく、むしろ積極的に殺しあう。カミーユは死んだ仲間たちの協力を得てシロッコに勝利するが、そもそも死んでから話ができるのは「ニュータイプ」じゃなくて「イタコ」能力であって、死ななければ理解できないのであれば人類の未来は真っ暗ではないか?
「ニュータイプ」ではないが、「分かり合う未来」に一つの結果を示したダブルオー
Zに続いて様々なガンダムが作られるものの、人類に分かり合う未来は訪れない。各キャラクターたちは目の前の戦闘を終わらせる努力はしても、戦争根絶などは考えもしない。
そこに宇宙世紀ではないいわゆる「アナザー」と呼ばれるシリーズで「分かり合う未来」を描いた作品が登場する。「機動戦士ガンダム00」(以下ダブルオーと呼ぶ)だ。
ダブルオーは最初から「戦争根絶」という言葉を意識的に使っており、アムロ・レイの声優を務めた古谷徹をナレーターに起用することなどからファーストへのオマージュが感じられる作品だ。特に後半登場する0(オー)ガンダムはほぼデザインがファーストガンダムであり、「オー」とはオリジナルガンダムという意味だろう。つまりタイトルであるダブルオーはオリジナル=ファーストを超えるぞ!という気概の現れだと私は思う。
そして「超える」とは単に面白さや商品セールス数ではなく、ファーストが示した「分かり合う未来」の先を描く、ということだ。
作中では「ニュータイプ」という言葉は一切使われないが、量子化及びイノベイター化した刹那・F・セイエイがダブルオーライザーやダブルオークアンタの能力を使って相互理解を呼びかける、という方法を取っている。
作風が全く違うので開始当初ファーストとの共通性を見出したファンは皆無だったと思うが、作品として「戦争根絶」とはどうすればたどり着けるのか、とひたすらに問う姿勢を貫いたからこそ、その先に「イノベイター化」による理解が描かれる、という構図はファーストの戦争の極限から生み出された「ニュータイプ」とはっきりと共通している。
そして1st、2ndに続く劇場版完結編のラストでは人類の4割がイノベイター化しており、ひたすらに平和を望んだヒロイン:マリナ・イスマイールがその目的を達して平和に暮らす未来が描かれている。
全ガンダムの中で一時的ではない相互理解と平和が描かれたのは本作のみであり、その点においてダブルオーはファーストが入口を提示したのみで終わった未来に一定の答えを出した。
そしてユニコーン
ご承知の通り、ユニコーンも「分かり合う未来」を完全に語っているわけではない。その意味ではダブルオーを超える作品はいまだ無いことになるが、ZやZZ、逆シャアなどのように兵器としてではなく、向かうべき未来、しかも主人公周辺の限られた人々ではなく、人類全体として描いている点で、テーマ性が深い。
そもそもZやZZにテーマなどない。「ニュータイプ」という言葉をなんとなく振りかざしてモビルスーツで悩みながらも殺しあうだけの少年たちを、口当たりよく書くことでガンプラが売れる、という作品でしかない。「戦争」という言葉を使ったり、人が死ぬシーンを挿入することで「深そう」な気配は漂わせているが、敵の大将である個人を倒すことで終わる、という流れはウルトラマンが暴れまわる怪獣を倒して飛んでいくのと同じ構図である。
その点でユニコーンは明らかに異なる。バナージは途中ではフル・フロンタルを許せないと思い撃墜しようとするが、それ以外ではほぼ「殺す」、「倒す」にはこだわっていない。
ストーリーが「ラプラスの箱」の争奪戦とその謎の解明に絞られていることで、殺し合いにウエイトがおかれていない、というのが勝因のように見えるが、私の見解は違う。
バナージとオードリー(ミネバ)が、殺し合いを避けたいと願っていることが明確だからだ。
この作品で彼らは「未来を担うべき新世代」として描かれている。
私は本考察で意図的にこの表現を2度使った。「未来を担うべき新世代」はファーストのカツ、レツ、キッカだったはずなのだ。
しかし「ニュータイプ」「人類の革新」を描く気がなかった富野氏は彼らをただの若者としか描けなかった。だがユニコーンの世界を構築した福井氏は二人に人類の未来を託した。
もしZが真剣に人類の未来を描くつもりであれば、カツ=バナージとして成長したミネバとのエピソードとしてもよかったはずだ。
ユニコーンでの「ニュータイプ」解釈とは?
ユニコーンではジンネマンらジオン残党と、既得権益を守ろうとするビスト財団らを現人類の代表として描き、争いが無い未来など来ない、という現実を痛切に描く。
恨み、欲、その二つこそが戦争の根源である、という明確な話だ。
人類はその二つから自由になれない。
しかし徐々に欲をコントロールできつつある世代もいる。リディがその我々の代表だ。
我々は争いなど意味がない、欲は平和の敵、恨みは何も生み出さない、と知っていてもなかなか現状の世界の成り立ちに抗うことは難しい。
一方、欲と恨みにとらわれない新世代:バナージとオードリーは最初からニュータイプとして覚醒している。他の作品で多い、徐々にニュータイプとして覚醒していく、というスタイルではなく彼らは最初から完成したニュータイプなのだ。
しかしニュータイプとしての感応力は発達していても人間としては未熟である。
彼らは遠隔感応と相互理解はおおむね早い段階でできている。つまり殺し合いの極限の中で分かり合ったアムロとララァよりも明らかに次の段階に達しているのだ。
それでもなお、他者に影響を与えるには人間としての成熟度が不足している。それが望まない戦いを続け、多くの人とめぐりあい、別れていくことで、自分の言葉で多くの人を説得できるようになっていく。
そしてラストシーン、ミネバは新世代の代表として人類のあるべき未来を全世界に語る。
バナージは力を持ったニュータイプの代表として、アクシズショックのような偶然の産物でない「暖かい光」を人類に示す。
つまりユニコーンでの「ニュータイプ」解釈はこうだ。「ニュータイプ」とは感応力が高い人の総称である。「能力」の名称と言ってもいい。
しかしそれは能力でしかない。使い方を誤ればシロッコのように独善に陥ったり、カミーユのように崩壊したりもする。
人間として成熟してニュータイプとして覚醒していくこと、これこそがユニコーンが描く未来なのだ。
富野氏はユニコーンをあまり高く評価していないようだが、提起したのみでなんの結論も出さなかった「人の革新」に新たに切り込んだ本作、一連のガンダム作品の中で私は高く評価する。
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