「小さいおうち」の幸福な日常を奪う戦争の恐ろしさ
単なる不倫の恋の話ではない
直木賞受賞作であり、山田洋二監督によって映画化にもなった本作、前評判だけ聞いていると、主人公の女中が、仕えている奉公先の奥様の不倫を知ってしまい、という、いわゆる「不倫もの」なのかと思っていました。しかし、読み終わってみると、印象はがらりと変わり、奥様の不倫騒動は単なるエピソードの一つであり、もっと大きなテーマのある作品だと感じました。この作品は昭和初期の中流家庭の日常の中に戦争がじわじわと侵食してくる様子が女性目線で細やかに描かれ、教科書や史実からではわからない、あの時代の空気が非常によく伝わってくる点が素晴らしく、筆者がいかに綿密にこの時代の家庭における細部までを調べ上げたかがよくわかります。戦前の暮らしというと、もっと貧しいものを想像していましたが、普通の家庭でも女中を雇い、品のある華やかな空気が流れていたことが驚きでした。開戦してからも、すぐには悲壮なムードが漂うわけではなく、皆どことなくわくわくしていたり、食べるものや娯楽もあったことが描かれ、普通の人々の暮らしをタキの目線から共に体験するように物語は進んでいきます。今までの戦前、戦中のイメージを変え、もっと身近にリアルに感じられ、非常に面白く読むことができました。しかし、最終章で、それまでとまったく違う視点から改めて、それまでの物語を振り返ることになります。すると、戦争がそうした人々の暮らし、そして人間が失ってはならない重大なものを奪い去ってしまったということを感じさせられ、ぞっと恐ろしくなる、この作品はそうした戦争の恐ろしさを、これまでの戦争を描いた作品とはまた違う視点で描いているのではないかと思ったのです。
回想と現代の2重構造
本作は、女中タキが晩年に記した回想録が主なため、タキの視点で物語が進んでいきます。そして最終章では、タキの死後、その回想録が記された大学ノートを譲り受けた健史が新たな事実を発見するという2重の構造となっています。それまでタキの視点で物語られ、読者が知りようのなかったこと(タキが仕えた時子の秘密の恋の相手、板倉が、カルト漫画家イタクラショージであったという事実や、時子の手紙が見つかったことで、タキがノートに嘘をついていたのではないか?と考えられることなど)が明かされていく様はある種ミステリーのようで、個人の回想に終わってしまわない面白さがあります。タキのノートは途中で絶筆となっており、終戦後すぐのことは書かれていても、それから先、現代に至るまでのタキのその後の人生については書かれていません。戦争で生き残ったタキ、そして板倉がその後どのような思いを抱えて生きていたのだろうかということは、最終章で健史の視点に変わることによって見えてきます。
生き残った二人の生涯
まず板倉の生涯ですが、タキの回想録では、板倉は真面目な好青年として描かれていました。その板倉が戦後、カルト漫画家となり、そのイメージからは似つかない、ブラックユーモアを取り入れた作品を多数描いていたことは、板倉が戦争に行ったことで精神面に大きな変化があったことがわかります。そして、「赤い屋根の家」をモチーフに描いた作品には、常に変わらず家の中で手を取り合って暮らす二人の女と対照的に、戦争に行って次第に人間性を蝕まれていく自身の姿が描かれます。戦争が板倉に及ぼした影響と、生涯独身であったという事実、時子を思い続けたのであろう、その後の人生を考えると、悲劇だなぁと感じざるを得ません。タキも生涯独身を貫き、晩年は寂しい日々を送っていたことが健史の視点からわかります。そして最終章で明かされる、タキが時子の手紙を板倉に渡していなかったという事実。健史は、タキが時子に恋をしていており、そのため手紙を渡さなかったのかと解釈します。タキがたとえそのような秘めた思いを持っていたとしても、もしくは女中としての信念を持ってやったことであっても、タキがその後もその手紙を持ち続けたということはどのような思いでのことだったのでしょうか。もう時子が戦争によって帰らぬ人となってしまった以上、手紙を渡すことのできなかった後悔は、自身で振り返る回想録にすら、事実を書くことがためらわれるほどの苦しみだったのかと想像されます。
戦争が奪い去ったものとは
タキの回想録に描かれたのは、タキの青春とも呼べる、幸せな時代でした。そして板倉にとっても、「赤い屋根の家」は幸福の象徴であり、変わってしまった自身と対比して、いつまでも変わらない大切な存在だったのだろうと感じられます。タキと板倉、この二人が愛した「小さいおうち」は、戦争によって失われてしまいました。戦争が、このように、個人の人生から重大なものを奪い去ってしまって、様々な悔恨を抱えてその後を生きていかなければならないということは、本当に厳しいことだと思います。戦争で生き残るというのはこういうことなんだ、ということを、現代を生きる私たちに伝えてくれる作品でもあるのだと思います。
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