皮肉たっぷりの和製スパイアクション小説
一つ目の皮肉:命を売るほどに生に近づく
この物語は皮肉の物語である。主人公は人生がつまらないもの無意味なものだと感じ自分の生に終止符を打つために命を売りに出す。しかし、命を売るに出す出す中で彼は今までの人生で経験したことのない様々な奇妙な人、もの達と遭遇する、女房殺したいほど憎んでいる男、未亡人である吸血鬼の女、自分を愛したオールドミス、某国のスパイ合戦、狂人女との婚約、裏社会を暗躍する「AGS」という組織。そんなドラマのような奇妙奇天烈な経験の中で人生の興味関心をなくしたままでいることができるだろうか。彼は皮肉にも人生の興味関心を無くし命を捨てることでより人間らしく人生を満喫することができてしまったのであるその結果彼は人生、生への興味関心、死への恐怖を取り戻してしまうことになる。
二つ目の皮肉:命を売るということ
少し話が変わるが『命売ります』は三島没後45年の2015年(平成27年)に突如人気が広がり、ちくま文庫が1か月で7万部重版され、この年と翌2016年(平成28年)に ベストセラーとなる現象が起きた。
なぜこの作品は出版後、半世紀近い時を経てヒットしたのだろうか?
それは現在の日本社会の問題が提起されているからだと考えている。彼は人生に意味を見出せずにセーリングフォライフという看板を掲げる前に既にもう命を売り出していた。会社に属し働く、歯車になるということは自分の人生、命を切り売りしてるということにほかならない彼がした行為はもともと売っているものを少しずつ売るかまとめて売るかそのだけということだ。我々は注意し嘲笑下大奥の人と同じように命を売りに出す彼を馬鹿にしているかもしれないが結局は我々も同じである。もしくは自身で命の売り先を決める彼のほうがよっぽど人間らしく我々よりも賢い生き方をしているのではないか。一度しかない大切な人生をしょうもないことに切り売りしているような今の日本。作者に笑われているのはむしろ我々の方なのではないかそんな気がしてならない。
現実とファンタジーとのギャップ
「AGS」という言葉がこの物語は登場する。最後までお読みになったかたは分かるかと思うが本作品の黒幕的存在である。主人公が今まで出会った多くのふざけた出来事を裏から糸を引いていたのは、この組織だったわけである。しかし、主人公最大の危機を乗り越え命からがら生き延び、警察官に助けを求めるがここで一気に現実に引き戻される。
「まともな人間というのはな、みんな家庭を持ち、精一杯女房子を養っているもんだ。君の年で独り者で住所不定と来れば、社会的しんようがないのはわかりそうなものじゃないか」
「あなたは人間はみんな住所を持ち、家庭を持ち、妻子を持ち、職業を持たなければいけないというのですか」「俺が言うんじゃない。世間が言うのさ」
「しかし、命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはいないからね。犯人になるのは、命を買って悪用しようとした人間の方だ。命を売るやつは犯人なんかじゃない。ただの人間の屑だ。それだけだよ。」
酷い言われようである。今までスパイアクションさながらの生活をしていた主人公の生きざまを全否定することになる。読者としても不思議の国のアリスのように今まで起こったことは全て夢や幻だったのではないかとさえ思えてしまう。
ここで本作品の最後の描写を紹介しよう。
たった一人だった。すばらしい星空で、署の前には、警察相手の呑み屋の二三の赤い提灯が、暗い露路の奥にゆらめているだけでだった。夜が羽仁男の胸に張り付いた。夜はぺったり彼の顔に張りついて窒息させるかのようだった。
署の玄関の二三段の石段を下りかねて、そこに遂に腰を下ろすと、羽仁男はズボンのポケットから、ひね曲がった煙草をとりだして火をつけた。泣きたくなって、嗚咽の奥がひくひくしていた。星を見上げると、星はにじんで、幾多の星が一つになった。
素晴らしい描写である。社会から放り出された男が、一人孤独に夜を過ごしている様子が目に浮かんでくる。自身の人生の自由(自身の意思による人生を終わらせ方)を求めていた男が最後には社会への所属や安全を求めてしまう。これも前述した通り皮肉の限りであるが、今までラストはどんなオチなのだろうかとワクワクしながら読み進めていた読者としては肩透かしをくらい、がっかりした方が多かったのではないだろうか?
しかも本作品が掲載されていたのは皆様おなじみの「週刊プレイボーイ」であり、中学生、高校生が一番多い読者層でもあり尚更である。
彼らの期待に応えるためにもアクション映画のようなラストにすべきだったのではないか?
しかし、三島由紀夫はそのような結末を望まなかった。
ちなみに作者の三島由紀夫は非常に裕福な家柄で育ち、東京大学法学部を卒業し、官僚として勤めたこともある今でいうエリートである。彼は最終的に作家として成功するがそこに至るまで家族、会社、社会と折り合いをつけるための苦労が間違いなくあったはずである。そんな作者だからこそ、自由に生きることの難しさ、多くの人間が組織に属さず自由に生きることを望むが、それは不可能であり多かれ少なかれ歯車として役割を果たさなければこの世界で暮らしていくことは難しい。荒唐無稽な夢など望まずに堅実に生きることが大事だ。
そのようなメッセージを伝えるがためこのようなラストにしたのではないか?
3人の魅力的な女性は何故登場したのか?
この物語には3人の魅力的な女性が登場する。
るり子、薫の母親、玲子この3人である。
・るり子
・薫の母親
・玲子
大文豪である三島由紀夫だけあってそれぞれの魅力的な体の描写がある。
やはり「週刊プレイボーイ」に連載するだけあってエロティックなシーンを是非と編集からの要望があったのかもしれない。
彼女たちの登場にはそんな意味もあったかもしれないが、私は主人公がどれだけ死へと近づいているのか目安として存在したと考えている。
るり子はとても死ぬことなど考えず、生きたいと願っていた。
薫の母親はともに死ぬことを望むが、最後には主人公を想い一人で死んでいく。
玲子はともに死ぬことが二人にとって最大の幸せだと心中を強要する。
このように女性達と出会いが進むほど死が近づいてくる。
しかし皮肉なことに(この作品は本当に皮肉が多い)
女性と出会うほどに(死が近づくほどに)人間らしい生活をすることになる。
るり子とは一晩の交わりを
薫の母親とは仮初の夫婦の生活を
玲子とは結婚生活を
しかし、玲子との生活では自ら望んでいた死と拒んでいた退屈な人生(結婚生活)が目の前に横たわり矛盾した生活をおくることになりどちらを選ぶことのできない彼はその選択から逃げ出してしまう。
人生への無意味さ、作者の失望
主人公がそもそも死のうと考えた理由としては人生はおよそ生きるに値しないつまらないものだと考えたことである。これは誰しもが考えたことのある考えなのではないだろうか?何故、学校に行かなければならないのだろう?何故、勉強しなければならないのだろう?何故、働かなくてはならないのだろう?何故、生きていくのだろう?そのような疑問を抱き、生きることが億劫になったことがあるだろう。多くの方はご存知だと思うが作者の三島由紀夫は1970年、45歳のときに亡くなっている。愛国心故にクーデターを企てるも、自身の考えに賛同する国民はおらず失意のうちに割腹自殺を遂げる。この作品は彼の死の2年前に出版されたものだが、作者にとっての国民の愛国心喪失が自身の生への執着の薄れとなり、それが冒頭の主人公の人生への無意味さへとつながっているのではないかと私は推測する。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)