両儀式、強く、しかし儚げな主人公
彼女は現世から浮つくように。
あまりに濃密な世界観、一癖二癖では収まらない個性的なキャラクター達、面白いよりどうしようもなく趣深いストーリー、それらが合わさることで産まれた、独特異色な伝奇物語、空の境界。今回はこの物語の主人公、両儀式というキャラクターについて触れていきたい。まずこの物語は、限界までシンプルに語ってしまえば、何らかの事件が発生し、主人公がその事件の中核を為す人物と対決することで解決に導く、というモノだ。しかしながら、ここまで書いて、多くの人が思い描くようなヒロイックな主人公観は、決して両儀式に当てはまるようなものではない。彼女は物語の中で終始、自分の為、あるいは自身の感情に従ってしか動いていない。独善的とすらいえない、野生動物のように本能に従って動いていると言うべきだろうか。作中においては、動物に例えるならウサギであると言及されたが、他人を遠ざけるという彼女の一側面の本質はついてるようで、やはり彼女の抱える能力や衝動を考えれば、やはりそんな可愛いものでは無い。ただ確かに、ウサギのように人を遠ざけて輪の中になじまない彼女は、普通の人間社会には一切馴染めてはいない。彼女の基本衣装である、高級冬用和服の上に安っぽい赤の革ジャンという、あまりにも一般的な感性からかけ離れているファッションが、そのまま彼女の在り方を現しているだろう。唯我独尊に生きる彼女は、群体で生きることが常の人の世から浮いてしまっている。そんな彼女こそが、いやそんな彼女だからこそ、この深淵な物語に沈むことなく、最後まで主人公を張り続けられるのかもしれない。
彼女は誰よりも死を見つめ。
両儀式を語る上で外せないのが、彼女の持つ異能「直死の魔眼」だ。これは、字面から感じるように見ることで相手を殺す、というものではない。これは、相手の死、寿命を理解し読み取ることで、干渉可能な状態にする、と言うものだ。例えば人を視れば、心臓や脳などの現実的な急所ではなく、その人間に死の線と呼ばれる特殊な急所を視ることができる。これを視認できる人物がその死の線をなぞれば、なぞられた部分は死に、即座に崩壊してしまう。それが腕にある線なら腕が、足なら足が、首なら首が、いともたやすく解体される訳だ。これは生物だけでなく、無機物、果ては魔術や霊的存在、敵の持つ異能という概念的なものまで適応され、両儀式はこの眼で見ることで、あらゆるものを解体、崩壊させ、死に至らしめることを可能としている。さて、この異能は相手が何であろうと主人公である両儀式に勝機を産みだす強力な武器であるが、それと同時に彼女の在り方にも大いに影響を与えている。この異能の本質はどんなモノでも殺せることでは無い。それが眼である以上、死を視ることこそが本質なのだろう。この異能は簡単にスイッチを切るようにオンオフできるようなものではなく、彼女は死の線を見続けなくてはならない。それは彼女にカタチあるものは必ず朽ちるという当たり前の現実を冷徹に打ち付ける。ゆえに、両儀式は、自分自身を含め、この世のあらゆるものが次の瞬間あっさりと崩壊し、全て死に絶えかねないものであると、視覚情報として常に実感し続けている。確かに生きているのに、誰よりも死に近い場所で生きている。先に述べた、彼女の浮世離れした雰囲気は、こういった部分から来ているだろう。
彼女は誰よりも生を求め。
両儀式は物語の中で起きた事件を解決している。だがやはり、彼女は正義感に従って解決に動いている訳ではないだろう。では、何を求めて事件に関わるのか。それは本作品を読んだことがある皆さま方ならお分かりだろう。彼女は事件を起こした者たちと、殺し合うために事件に関わっている。きっかけは良く知る誰かの窮地だったり、相手の動機が気に食わなかったり、よく知らぬ誰かの為だったりするが、最終的に求めるのはそこ、殺し合いのみのようだ。作品をお持ちの方はもう一度読み返してみると、実感しやすいだろう。大迫力のバトルシーンにのめり込んで気づいてない方も多いかもしれないが、殺し合いの最中こそ、両儀式はよく笑い、活き活きとしている。実際のところ、両儀式は事件を起こした人物たちとの殺し合いを求め、その結果として事件が解決されている、というのが物語の説明としては正しいわけだ。さて、常日頃から死に触れ合いながら、自ら殺し合いにのぞむ彼女は、いわゆる希死念慮にでも憑りつかれているサイコパスなのだろうか。いや、そうではなく逆なのだろう。かつて一度死に、死を恐怖している彼女は、誰よりも生きたがっている。しかし常に死に触れ合いながら、主観を捨てて客観的に世界を見ることで自己を保っている彼女は、生きているという実感があまりにも薄いのだろう。ゆえに、彼女は殺し合いの中で死を実感したいのだ。誰よりも死をよく知る彼女は、死を誰よりも確かに実感できる。死ぬことができるのは生きているものの特権だ。生きながら死に迫り、そういう意味で逆説的に自分はまだ生きているのだと感じ、確かな生を実感することこそが彼女の真の目的だ。死に触れ合い、死を誰よりも理解しながら、殺し合いに興じ、しかし誰よりも愚直に生を求めている矛盾した存在が両儀式と言える。
彼は彼女の傍に在り。
さて、孤独に生き、一個人である意味完成されているように見える両儀式だが、彼女を構成する要素として欠かせない二人の男の存在がある。両儀織と黒桐幹也の存在だ。両儀織の存在は、両儀式にとっては他人では無く、正確に言えば同一人物、より正確に言えば多重人格における別人格と言えるだろうか。女性的な式の人格と男性的な織の人格が、かつては一つの身体に宿っていた。名は体を表すという言葉の通り、両儀、すなわち男性と女性、陽と陰、陰陽揃っている状態こそが本来あるべき両儀式の形だったのだろう。しかし、両儀織の人格は事故によって失われた。この時に、式は死を実感として経験し、直視の魔眼を得るきっかけにもなるのだが、同時に完全性を失い、上述したような矛盾した行動をともなう、生を求める在り方になってしまう。さて、言ってしまえばこのような矛盾塊は主人公のような役割では無く、どちらかと言えば事件を起こす側の役割こそお似合いに感じられる。それでも彼女が主人公という役割を遂行できているのは、もちろん彼女が殺し合いを求めながらも、死を忌避する真っ当な人間性を持ち合わせているというのもあるだろう。それに加えて、彼女が人間らしくいられる楔として存在しているのが、黒桐幹也という存在だ。彼は真っ当な一般男性だ。素行調査が得意という以外、特筆すべき能力も知識も無く、ただただ善良な人間のお手本の如く在り続ける。そんな彼の存在に、両儀式は人並みの幸福と言うものを夢見て、彼に寄り添う。異性同士の付き合いにみえて、愛というよりは依存というべき関係に見えるが、少なくとも彼女がまだ理解しえる真っ当な人間の範囲に踏みとどまれてい続けられるのは、彼の存在がとてつもなく大きいのだ。つまるところ、黒桐幹也という存在が両儀式の傍に在るからこそ、両儀式はこの物語の主人公たりえるのだろう。
彼女は罪人たちの箱庭に。
さて、副題にもある通り、これは罪深い者たちの物語だ。人間にとって最も分かりやすく、最大の罪である、殺人を体現しうる両儀式の存在は、なるほどこの物語の中心に立つのにふさわしいのだろう。この作品は現在、作中におけるすべての事件のきっかけを作った黒幕との対峙へと進んでいる。作中において最強の敵ともいえる黒幕との殺し合いを前に、両儀式は何を感じることになるのかが、両儀式に焦点を当てて読む場合において、今後大きな見せ場となることだろう。また、この作品の原作は既に完結済みであり、物語は既に完璧ともいえる形で終わりを迎えている。両儀式は、自分自身に、その在り方に、生きること、そして人を殺すということに、どう決着、結論を付けるのか、先の結末を知らない皆様には楽しんで頂きたい。ただ、先の結末を知っていたとしても、矛盾にまみれながらも、文字通り生に向かって必死にもがき足掻く両儀式の姿は、見る者を退屈させることは決してないはずだ。
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