地獄をちょっとだけ味見する。
失踪、アル中、どうして地獄か。
ハードな内容である!
しかし、あまりにもソフトな表現により、失踪もアル中もまるでそこまで大したことないような雰囲気にすら感じるではないか。なんとすさまじいことよ。
私事ではあるが、父がアル中であった(現在はアルコール依存症という名称で呼ばれる)。その体験から、失踪日記の特にアル中パートについて、どれだけ地獄かをご紹介したい。
まず、アルコール依存症は病気だ。これが大前提だ。
イメージとしては脳の一部がぶっ壊れて、一生涯戻らないと思ってもらっていい。ちょっと気が緩んで飲んじゃう、とかではないのだ。飲み始めたが最後、自分を肉体的、社会的に殺すまで飲み続ける。そうまでなってから依存症と呼ばれるようになる。
そこまで厄介な病なのに、病気であるという社会的認識の低さ、そして本人の「病識のなさ」がさらに地獄を呼ぶ。病識とは自身が病気であるという意識。つまり病識がないとは、酒飲みの良く言う「俺はそんなに酔ってねえっての、ヒック」というやつだ。流れとしてはこうだ。
・自分は飲んでいい人間だと思ってるから、つべこべ言われると逆切れする
・面倒になって周りに嘘をついて飲むようになる
・その結果、またリミットを超えた酒量に溺れて廃人ループ。
この一連の流れを数年繰り返せば肝臓がカチコチになって死んでしまうのだが、更に社会的に人を殺すのはこの一連の動きを他者、特に家族や職場などの関係者から見れば分かる。
・酒を止めてとお願いしているのに、自分は飲んでいい人間なんだあ!と逆切れする
・酒を隠したりしているのに、本人は嘘をついてしれっと飲んでいる
・その結果、またリミットを超えていてもう付き合えなくて限界。
父は今日は早く帰るからね、と優しい顔で朝出かけて行って、夜中に川を泳いで帰ってきて全身ずぶぬれだったりした。母は泣きわめき、子どもたちは親同士のケンカを見ないふりをした。
家からは調味料、お菓子に至るすべてのアルコール分が撤去されていたが、それでも父はどこかで飲んでくる。ある時、会社の車で飲酒運転の上事故を起こしクビになった。父は半死半生だった。母は病院でただただ泣いていた。子どもたちはよく分からず、病室の前で突っ立っていた。
どうだろう。地獄の見本のような状態ではないか。
私は失踪に関しては無知であるが、吾妻ひでおのアル中描写のマイルドさを見るに、反比例して実際は凄まじいことなっていたのであろうと予測する。
そう、こんなにもアル中をソフトに描いた作品を、私は他に知らない。
どうしてこんなにソフトなんだ。
失踪日記のソフトさには大きく二つの要素が絡んでいると思う。
まず、絶対的な吾妻ひでおの手腕である。
さすが、日本のマンガ黎明期を支えた巨匠の腕は衰えちゃいない。私が産まれるずっと前から、吾妻ひでおはナンセンスコメディの名手だったのだ。地獄だって彼にかかればコメディのひとつなんだろう。私の体感したことのある地獄(出先で酒飲んで暴れる)なんかも、丸っこい絵でちょっとポップに1コマ描いてあるだけだったりするが、マジメに悩もうと思ったらそのセンテンスで1話いける。ていうか映画1本撮れる。
重たい情報を、質、量ともさらっと流してしまう。ガツガツした新人には真似できない飄々とした手口だ。
そしてもう一つ、更に大きな理由は、吾妻ひでおが本当にまだ病の渦中にいることではないだろうか。
先に言ったとおり、ことアルコール依存症という病は病識がない。特に吾妻ひでおは互助会に関しても懐疑心を持っているようだし、まだまだ依存症を克服する段階にないのだろう。
病気モノというのは、治ったからこそ笑って話せるものだが、繰り返すがアルコール依存症はそうではない。むしろ重病な時ほど「俺は大丈夫だっての」と他人事で、本当に向き合えていなかったりする。
失踪に関しても、たびたび繰り返すということであれば依存なのであろう。他者に多大な迷惑をかけているのはアルコール依存症と同じだ。しかし、それでも画面は明るく吾妻ひでおの自画像は柔らかく、出てくる人たちもマンガっぽく泣く程度だ。自分を遠くから、他人のように描いている。
熟練のマンガ表現者と本物の病人、これが両立しているのが吾妻ひでおであり、それがもっとも顕在化したのが失踪日記なのだ。
こんなに身近な地獄を感じる機会は他にない。
これは本当に奇跡だと思う。
病人、特に精神疾患を患った作者のマンガは多々あるが、それは次第に線が崩れてくる、あるいはもTからひどいものだったりする。
総合失調症である卯月妙子の「人間仮免中」は、もうすでに資料の域に達していると思う。精神病患者がマンガを描いたらこうなった、的な。
しかし、マンガ作品として見た時にその稚拙さには閉口してしまう。デッサンという意識はもはやないし、ストーリーも飛び飛び。卯月妙子がストーリー漫画を描くなら私はきっと読まない。
しかし、失踪日記は完璧だ。完成された表現と本格的な地獄。これが両立することは奇跡に近い。
絵柄が古く感じることもあるかもしれないが、それは逆にマンガの歴史を築いてきた絵だからだ。だって70年代に全盛期だった人だもの。逆に、それでも「多少しか」古さを感じさせない実力に注目するべきだ。
こんなに身近に地獄を感じることができるなんて、なんともすごいことだ。ただし、吾妻ひでおの健康は十分祈りたいところ。
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