彼の描く「美少女」を知らない人は、ネットで検索してからこの記事を読んでほしい!
吾妻ひでおともあろうものが!
本作を、吾妻ひでおをあまり知らない人が読んだら、「何かダメなおっさんが、仕事を上手くこなせなくて失踪したりアル中になったりする話なんだな」、と思うだけだろう。
しかし、吾妻ひでおをリスペクトする人が読んだら、彼の描く美少女を愛する人が読んだら… 天地を揺るがすような激しい衝撃を受けるだろう。
本作はそんな作品だ。
「あしたのジョー」のカーロス・リベラがパンチドランカーに蝕まれ、ホームレスの廃人となって現れた時の衝撃、「SPTレイズナー」のエイジ・アスカが第2部で物乞いとなって現れ、グラドスのさほど強くもない士官の靴を舐める衝撃、例えが分かりにくいだろうか、でもそれくらいの衝撃を私は受けたのだ。
独特のエロスを持った美少女と、形容しがたいぐんにゃりしたSFセンスで、漫画の世界でオンリーワンのポジションを築いていた天才:吾妻ひでお、、そんな彼が、見る影もなく落ちぶれている。残飯をあさり、拾ったしけもくを吸い、人目を避けて腐ったむしろに包まって眠る。もちろんその姿がたまらなく悲しい。
しかしそのストーリー以上に悲しいのは、前半全く美しい女性が出てこない、と言う点だ!
美少女を書かない吾妻ひでお…それは本当に彼なのか?
これ以上の驚きがあるだろうか。美少女を書かない吾妻ひでおはもはや彼ではない。
本作では、なんと40ページまでに女性が一コマしか出てこない。それも電車の片隅に座っているいわゆるモブの女性が一コマあるのみ。41ページ目にようやく出てくる女性は、まあ、可愛いが単なる通行人に過ぎない。
本作はドキュメンタリー性が高いので仕方ないのかもしれないが、これは本当に吾妻ひでおが作品として発表したものなのだろうか、と思ってしまうのは私だけではないだろう。
巻末の対談でとり・みきがやたらとフォローしている。内容を褒めたたえつつ、コマ割りの妙などにも言及し、わかったようなことを言っている。
ネットでも壮絶な内容なのに悲惨に見えない書きぶりが凄い、とか書かれたレビューを多数目にする。
しかし、本当にそうなのか? と思う。
それってアル中に堕ちた彼だから、このあたりで良しとしてやろう、みたいな上から目線で見てないか? と私は言いたい。
これを読んでいる人で、もし彼の美少女の素晴らしさを知らない人がいたら、ツイッターで2016年以降の彼のイラストを見てほしい。本作執筆時には書けなかった劇的に可愛い美少女を描く才能が見れるはずだ。
少ない線で十分な可愛らしさを表す能力。そのスキルは最短距離で我々の脳に美少女を届けてくれる。単なるセクシーさではない。可愛いのにエロい、佇まいがエロい、脱がなくてもエロい。これだ!これこそが、彼なのだ! 彼が描く美少女はリアルではない。顔は若干ぽっちゃりしている。抜きんでた美人でもない。でも最高に可愛い。何時間でも見ていられる。なんて素晴らしいんだろう、とほれぼれする。
私たちにそう思わせる彼は、まさしく天才なのだ。アル中、老化、大病を経た今ですらその天才は揺らぎようがない。
トラブルを抱える天才作家
私は最近、自分の著作のために、脳科学や精神疾患などを少し勉強している。
その中で興味深い記事を見たので吾妻ひでおになぞらえながら紹介しよう。
小説家などの創作を生業(なりわい)とする人々の中には精神を病みやすい人がいる。その人たちの中には乳児期に十分な愛情が与えられず、その不足を補うために自らの中に別の人格を生み出し、その他者と会話することで寂しさを埋めているケースがあるというのだ。しかもそのキャラクターは一人にとどまらず複数いる場合があるという。
これをイマジナリーフレンドと呼ぶ。
イマジナリーフレンド自体は珍しいものではない。子供の半数がそれを生み出すと言われているので、それ自体が特殊能力ではない。
しかし、普通の人々は成長過程のどこかでイマジナリーフレンドをいつの間にか捨ててしまう。普通に生きてさえいれば、自然と他者と共有する時間が増えていき、イマジナリーフレンドの存在が不要になるのだ。
しかし、将来作家を目指す可能性がある人は違う。
自我もろくに育たぬうちから自分の中に多様なキャラクターが育つのだから、ある意味作家になるべく素質を磨いているとも言える。
吾妻ひでおも幼少期に母親が交代していることを本作で語っており、詳細は不明だが十分な愛情を得られずに育った可能性は高い。
そしてそのような人々は、その生い立ち故に、人間関係の構築が難しくなるケースがある。愛されずに育った子供は自分に自信を持てず、人の顔色を窺って生きるようになる。いわゆる過剰協調性という状態になりやすいのだそうだ。
過剰協調性とは何か? よく言えば空気を読む能力なのだが、悪く発現すると自分を抑圧してまで相手にサービスしてしまう。彼のギャグ漫画もまさにそれだと思う。ギャグを書くということは相手を楽しませるという事であり、究極の利他的行為だ。
彼はアル中になって命の危険に遭遇した後ですら、小咄(こばなし)で笑いを取ろうと努めたと言うのだから、完全に過剰な状態と言っていいだろう。苦しいのにギャグを発することから抜けられない、そしてそのストレスが酒を呼ぶ。
つまり、上手く生きられないが故に、作家性が高いとも言えるのではないだろうか。病んで尚、創作の意思を見せる彼は、根っからの創作者であり、それが故に問題を抱えやすいのだ。
天才に普通を求める不条理な世の中
本作を見た時、ストレスに負けて逃げ出したり、ホームレス生活の果てにアル中になったり、そんな彼を見て吾妻ひでおは「終わった」、という人もいるだろう。
しかし、本当にそうなのか?
私も最初はそう思った。こんな吾妻ひでおは見たくない! と。
だが冷静に考えてみよう。彼がこれまでに書いてきたものは、「売れる」ことを目指して計算して書いたものではない。
ただ魂の赴くままに美少女を書き、自らのうちに眠る不条理を書いてきた。彼は用意周到な秀才ではなく、形や習慣にとらわれない、天才なのだ。
これまでも品行方正な作品など書いていない彼だ。
我々凡夫には想像もつかないが、失踪もアル中もある意味彼らしいと言えるのかもしれない。
一般に、世の人々は著名人の没落を目にしたとき、ハイエナのようにそれにたかり、攻撃を加える。薬やアルコールに溺れた人を、もはや人間ではないと叩き、それまでの功績をなかったことにしようとする。
しかし私はこれに異を唱える。無論、失踪やアルコール依存は悪いことだ。だがそれ以前の彼らの功績の輝かしさは失われるべきではない。
もちろん彼らも弱かったのだ。酒や薬に逃げることは推奨される人生ではない。
しかし前項で述べたように天才としてある部分の才能を発揮する人は、大きなストレスを抱えやすいし、才能の代償として疾患を伴いやすい。
彼らは激しい光を発するが故に、闇もまた濃いのだ。
凡夫たちはその天才の苦悩を知らず、今日も闇にとらわれた天才を叩き、彼らが普通に生きられないことを罵る。
しかしよく考えてほしい、凡夫は普通でいる事しかできないのだと。彼らは激しい光を発することが無いから闇も伴わないのだ。凡夫は堕ちる事すらできない。言い換えれば堕ちるというのは才能の発露なのだ。
吾妻ひでおはどこへ行く
2017年現在、彼は食道癌と闘っているらしい。
人間である以上、その生命に終わりはやって来る。私は医者ではないので専門的なことはわからないが、仮に食道癌を克服したとしても、これまで酷使し続けて来た肝臓は既に悲鳴を上げているだろう。彼はもう長くないかもしれない。「どこへ行く」という問いこそが凡夫の愚問なのかもしれない。彼の功績は既にある。美少女、ロリータ、不条理、SF、彼は多くのサブカルに十分に貢献している。あるいは、彼は、何十年も前から彼の世界の中でのみ生きる人なのかもしれない。
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