嘘くさくなく共感が持てるSF作品
目次
将来現実化しそうな要素がある未来設定
この作品は、未来において宇宙旅行が一般化する中、宇宙船の遭難事故などを対象としたレスキュー隊が舞台になっている。この手の作品は、ウルトラマンの宇宙警備隊の様な、小さな子供には受けがいいかもしれないが、大人が見るにはやや幼稚な設定になりがちであるが、うまく現実味を帯びた設定にしてあると思う。
この映画の視聴層が、子供ではなく出演者の関係でV6ファンの大人の女性に偏るであろうことも想定されているためかと思うが、実際現在も問題になっている宇宙ゴミ(デブリ)の回収など、今後宇宙産業に商売として進出してきそうな仕事もこなすレスキュー隊というのは、非常に現実味を感じた。
また、太陽フレアなどの現象による電子機器の異常などは、最近でもスマホなどの電子機器の通信状態が悪くなることが報道されるなど、一見宇宙の知識に疎い人でも聞いたことがあるような要素をうまく取り入れられてる。ただ、この作品が発表された2003年には、もうかなりの携帯電話の普及率だったと思うが、2053年の設定なのに通信にテレビ電話とはいえ公衆電話を使っているシーンなどは、やや未来への読みが甘かったか?とも感じる。
隣りの芝は青く見える、仕事は暇がいいか、多忙がいいか?
この作品のメインテーマは森田剛氏が演じる南條が、過去に職務中に判断を誤って同僚を死に追いやってしまったこととどう向き合うかである。
しかし、南條だけにフォーカスするのではなく、南條の後輩である岡田准一氏が演じる澤田の、青臭い正義感が非常にいいスパイスになっているし、澤田の存在こそがこの作品の鍵になっている。
元々レスキュー隊員になった人というのは、正義感に燃えた人が多いだろうし、若い新人などは尚更そういう気概を持っているだろう。しかし、そこには一つの矛盾と葛藤がある。世の中、事故など起きないに越したことはなく、本来レスキュー隊員は暇であればその方が世の中は平和だという事だ。
そうなると、衝突事故防止のための宇宙ゴミ拾いが、レスキュー隊員の仕事となってくるわけだが、澤田のように活躍したいという思いから、ゴミ拾いに嫌気がさし、俺の活躍できる事件や事故は起きないのか?と人の不幸を望んでしまうという矛盾が生じてしまう。
事故現場の場数を踏み、同僚を失った経験のある先輩南條と、そういう経験がない澤田の職業意識の差は、宇宙のレスキューという架空の職業であっても、実際に共感できるという人は多いのではないだろうか。場数を踏んでつらい経験があるからこそ、そんな経験よりゴミ拾いをしているくらいの方がいいんだという南條。人を助けてこそレスキューと熱くなる澤田。その中間で見守る江口。
そこでただ衝突するのではなく、お互いが失った思い、まだ経験していない感情を共有することで成長すべきであることを、この作品は学ばせてくれる。
良かれと思ってしたことが裏目に出た辛さ
人の運命というのは本当にわからない。特に事件や事故などとっさの判断を要求されるような場では、後になってああすればよかったこうすればよかったと思うことはたくさんあるだろう。また、そのような「たられば」を集めると、事件や事故が起こりうる原因や要素というのは、300くらい集まり、その一つでも欠けていたら、事件や事故は起こらないと言われている。
南條は、過去に、自分の命を犠牲にして仲間を救ったはずだった。しかし、救命ボードに乗せた同僚の方が行方不明になって死んでしまい、自分の方が救出されるという大変苦い経験をしている。
この経験に似たようなことは日常でもよく報道されており、よくありがちなのが、海難事故で溺れている人を助けるつもりが助けに行った方が亡くなってしまい、溺れていた方は他の救助隊に助けられたなどの事例だ。
こういったジレンマは、その後のヒット作の海猿などにも散見される。海猿でも、仙崎は自分の過失ではないとはいえ、潜水士訓練中にバディの工藤を失い、任務中には先輩の池澤を失っている。また、上司の下川も任務中にバディを失った(負傷してしまった)ことで、原作と実写では表現に違いがあるが仕事への向かい合い方が変わってしまう描写がある。
同僚や先輩の死を経験した仙崎と、原作の仙崎の後輩で、理想に燃えてばかりいるコージの関係は、COSMIC RESCUEの南條と澤田の関係を彷彿とさせる
人助けはカッコいいばかりではできないという、現実の厳しさは、いつの時代も変わらないのかもしれない。
組織への反発、そして告発
この作品でも、本来自分たちを導いてほしいはずの上司が自己保身のために悪事に手を染めていたことが発覚する。法令順守という意味で最近ではすっかりなじみのある言葉であるコンプライアンスという外来語が定着したのも、2000年前後くらいなので、この作品が公開された頃には、徐々に働く人間の意識が、法令順守意識を強く持ち出した頃ではないかと思われる。
いわゆる、泣き寝入りされがちだった会社の悪しき体質や、上司の不正などを見て見ぬふりをせずに告発する社員が増えて来つつある、そんな時代に突入した時期の作品と言える。
三宅健氏演じる江口の冷静な告発や、不正を許さないという姿勢を持った上司、戸田菜穂氏演じる橘役は、見ていて非常に爽快である。単純にドラマだからそういう反発ができるのだという、内部告発が理想の正義ではなく、現実に行動に移すべき時代に公開されたこともあり、組織に疑問を持つ3人の行動には羨望より共感の方が大きい。
その後、2013年にヒットした半沢直樹などはその象徴的ヒットと言えよう。
アメリカ映画を思わせる既視感
邦画はアメリカなどに比較し、どうしてもCG技術や特撮にお金をかけられないので、この作品ではCGを使わなくても工夫次第でここまでやれるという工夫がなされていたことがメイキング映像でわかる。
日本でSF作品を作る時、嫌でもアメリカ映画のSFの迫力は、作り手は意識せざるを得ないだろう。
この作品は、宇宙船同士の戦闘シーンなどより、宇宙船内部のシーンが比較的多い点ではあまり予算はかかってないような感じはするものの、最後に南條が澤田の救出に向かうシーンなどは、良く表現されていると思う。
戦うべき敵が大量の宇宙人の侵略だとか、ダイナミックなものではないものの、危機的状況から生還を果たして、司令本部が狂喜に沸くシーンなどは、海猿なども同様だがアルマゲドンやアポロ13などの洋画を思わせる。そういうシーンを見ると、やはり人間は基本ハッピーエンドを望んでいて、脳内のドーパミンが一気に増えて多幸感を感じるような、そんな気持ちになるから不思議だ。
そして、この作品には南條の心のわだかまりになっていた同僚の死が、ちょっとした奇跡の引き金になる。こういう伏線の回収は、アメリカ映画にはない、日本人らしい繊細な感動をもたらしてくれる。
邦画ではCOSMIC RESCUEと海猿を以外では、SFやアクション系の実写映画ではアメリカ映画に勝るとも劣らない危機一髪からのハッピーを体験できる映画は少ないので、そういう意味でも希少なSF作品と言える。
知名度がない理由
この作品がSFとしてもかなりの良作である上に、キャストを見ても大物ばかりを起用しているにもかかわらず、あまり知名度がないのには理由がある。
公開当時、全館上映でなかったためだ。正直、この出来栄えであれば全館上映でもよかったのではないかと思うし、それなりの動員も期待できたように感じる。邦画のSFには好き嫌いがあると判断されたのかどうか、事情がよく分からないが、この映画を観た人の多くは、V6のファンがDVDやビデオを購入するなり、レンタルして観たと思われる。
邦画のSFとしては良作なため、作品の存在自体が一部の層にしか認知されなかったのは惜しく思う。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)