タブーをどこまで娯楽にできるか挑んだ作品
命の大切さだの正義だのはテーマではない
この作品は、日本ホラー小説大賞でも問題になって落選するわ、映画はR-15指定になるわで、内容的には確かに中学生同士に殺し合いをさせると言った不謹慎極まりないものになっている。
しかし、不謹慎だという声の一方で大ヒットになったのも事実で、人間というのはただ正義は勝つだの命は大切だなど、お涙頂戴の物語を欲求しているわけでないのだ。
そもそもこの作品は、人が死ぬからと言って感動して泣けるような話ではない。著者の高見氏だって、必死に生き延びようとする中学生の姿を通じ、読者を感動させて泣かせ、独裁国家の意味のない殺戮は許せない、などの怒りを訴えたかったわけではないだろう。
そもそも原作の独裁国家という背景やプログラムなる中学生同志の殺し合い自体が、高見氏が描きたかったものに対する言い訳に過ぎないからだ。
もし中学生がクラスメイト同士、無人島にでも放り込まれて殺しあえと言われたらどうするかな?という子供が想像するレベルの「もしも」を娯楽小説するうえで、殺し合いをさせるためには、当然こういう理由があるからですよというエクスキューズが必要になる。
その理由が独裁国家だったり、中学生を殺し合うことで軍事目的で戦闘データを取っているという、非常に無理がある理由なのである。もっとも、稚拙な理由とは言え、背景をぼやかして書きたいことだけを書いている、若者ウケはしても大人には酷評されてしまうような独りよがりな作品に比較したら、無謀を強引に正当化するエクスキューズとしてはよくできている方だと言える。
同じ戦闘データを取るなら、中学生より会社の同僚同士なり、ある一定の自治体に住む大人なりを対象にした方が余程有益なデータが取れるだろうにと突っ込みたくなるが、あくまで作者が描きたかったのは「もしも、中学生が」であり、ただただそのリアリティを追求したかっただけにすぎないのではないか。こういう表立って言えないようなタブーがウケてしまうのは、誰もが口には出さないけど、そういうダーティな妄想をしてしまう、そんな部分に読者がシンパシーを感じたからだと思える。
作者は七原より三村が好き
作品を通じて感じるのは、とにかく主人公の七原の影が薄いという事だ。一応、運動神経はいいらしい。そこそこ行動力もあるし、正義感もある。典子に好かれているあたり、容姿もそこそこいいんだろう、という事はわかるのだが、どうしても相棒の川田のそつのなさには負けてしまう。そもそも川田がいなかったら、どんなにプラス思考だろうが運動神経が良かろうが、典子さんを助けようが首輪が爆発して最後は死んでたか、典子の代わりに自殺でもしたか、そんな結末しか思い浮かばず、とても生き残れる器ではない。
それに引き換え、川田のそつのなさとサバイバル能力はどうだろう。また、作品を通じて三村信史の活躍シーンの熱の入れようは、どう考えても筆者が好きなのは七原じゃなくて三村だろうとあからさまに感じてしまう。何となく三村のシーンには、カッコいいやつが死んでしまう悲しさみたいなものを描いて、読者ウケを狙っているような感じもする。三村のモノローグの文体に特徴があるのも、ある意味七原より三村という男の内面をしっかり描いているような気すらする。
事実高見氏は、漫画版バトルロワイアルの作者田口雅之氏との対談で、三村が好きだと言っている。
この作品はある意味、クラスメイト一人一人の物語を書いているのだと思えば七原ばかりが主役じゃないという考え方もできるが、物語をけん引する主人公にあまりに魅力がないというのも、小説としてどうなんだろうと思う。結局は生き残っても、こいつに何ができるんだ?川田なしで、三村なしで、何ができるんだろう?そんな風にも思ってしまう。
映画版は三村の活躍の尺がやや短く、当時映画には初出演だった塚本高史さんが三村役をしており、さすがに大ベテランの七原役藤原竜也さんに圧倒されている感があった。藤原さんの演技力で多少は七原の主役としての体面が保たれていた感があるが、それでも山本太郎さん演じる川田があまりに戦闘慣れしていることや、桐山役の安藤政信さんの怪演で、七原と典子は何もしてないけど生き残って要領と運は抜群だなと思った人も多かったと察する。
漫画版でも三村のシーンはかなり熱が入っているが(田口氏も三村のファンだそうだ)熱を入れることで、その三村が七原をリスペクトしているという設定にしてあるため、三村ですら叶わない圧倒的なカリスマ性を七原に持たせている。そういう意味では三村を立てつつ七原を魅力的に描き切っているのは漫画版であると言える。高見氏のこの作品はかなりヒットしたが、高見氏にとっては処女作であり、どうしても構成に稚拙な部分はあちこちにある。最近は漫画などでも主人公を凌駕する魅力的な脇役の存在は当たり前になりつつあるが、それでもやはり主人公の影が薄いのは、原作の惜しい点と言えよう。
表現がやや古い
高見氏の年齢や、この作品が発表されブームになった、1999年から2000年代前半の世相や流行などを考えると、文中の表現にやや古さを感じる。当時10代だった世代などは、イメージすら湧かない表現もあったのではないだろうか。
例えば、桐山が持っているイングラムという銃の「ぱららら」という擬音についても、タイプライターのような音という表現がされているが、タイプライターなるものをそもそもこの作品の読者層は知らないのではないだろうか。そういう意味は、音のイメージがいまいちイメージできない若者もいただろうと思う。
また、一部生徒の「オーケイ」と「ベイベ」などの言い回しは、もしかしたら独裁国家ゆえの外来語へのあこがれがそうさせていた、とも言えなくもないが、やや古さを感じる。言い回しの古さを凌駕する魅力がキャラにあるのが救いだが、やや表現が気になり、読みにくさを感じる世代もあるだろうと思う。
設定は面白いがところどころ稚拙。それが故のリアリティも
中学生同士の殺し合いというタブーを、不謹慎ながらも興味深いという意味では面白いと評価するにしても、普段相当な読書量を積んでいる人間がこの作品を読むと、やはり表現自体に稚拙な部分があることを感じざるを得ない。
とにかくものすごい長編であるので、クラスメイトについて、好きな人がいたとか、時に回想シーンがかなり挿入されている部分がある。そういう生徒の背景自体はすごくリアルであるし、実際一人一人の人生にドラマがあって当然なのだから、ある意味「架空であるけど実際あったらその実際には忠実」な作品だという評価はできる。
しかし、今にも殺されそうだという時に、数ページにもわたって緊張感のない日常の先輩との恋の描写などは、蛇足感がありすぎたし、挿入箇所がふさわしくないと感じる部分もあった。特にそれを顕著に感じたのは琴弾佳代子のシーンである。漫画版や映画版からそのエピソードが無くなっていたのは、やはり蛇足感があったからではないかと察している。七原にあこがれの先輩がいたという描写も、リアリティはあるが物語としてはいらないエピソードだと感じる。それよりも、三村や杉村との友情を、もっと前面に出した方が良かったように思う。
不思議とあっという間に読める
この作品を手に取った時、聖書の様な厚さに、いつ読み終わるかとぞっとしたが、意外にサクサク読めてしまい、読了に3日かからなかった。集中して読む時間があり、そこそこ読むのが早い人なら一日で読了できてしまうだろう。文章に問題があるからとか、内容が薄いからというのではなく、文体が読みやすくスピード感があるというのは評価に値する。
稚拙な部分はあっても、読者を引き込む力も同時にあるのだ。ただ、惜しいのが高見氏が今のところ、一発屋になってしまっている点である。電子書籍が流行な昨今、スピード感ある読みやすい文体は、電子書籍向きだと感じるので、再起が望まれる。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)