自分を変えてあげられるのは自分だけ
自分のことしか考えていないから衝突する
一昔前までのいじめって、分かりやすいものが多かった気がする。机をどこかにやってみたり、教科書破いて捨ててみたり、トイレでリンチしてみたり。結局は心を追い詰めるものなのだが、肉体的に傷つけられるものが多かった気がする。それが、この「ライフ」という問題作が出てから、今の精神的に破壊させようとする感じのいじめや、より卑怯で、ゲスの極みとしか言えないようなやり方をぶちこむいじめが増えた気がするんだよね。
愛海みたいに、自分が中心・自分が一番じゃなきゃムカつく、誰かが目立てば叩き潰しにかかる性格の人間は、むしろ存在的にはかなりわかりやすい。際立って悪い奴だし、一昔前を投影しつつ、これからのいじめをしていくような。そんな印象があった。
誰でも愛海みたいに誰かを落としたいと思う気持ちは持ち合わせているし、誰でも自分が幸せになりたいと思っているものだ。それが人間だし、自分が大切にしたいと思うものを大切にするし、自分の信じる人を正義だと思う。そうでなければ戦争なんて起こらないし、それこそみんな仏みたいになってしまうかもしれない。そこで相手を傷つけることを望むのではなく、分かり合いたいと望めたら、たいていの争いはおさめられるものなんじゃないだろうか。生きてきた道が違うわけだし、全部分かり合うなんて無理なんだから、言葉を通して理解しあおう。みんなそんな風に考えれたらいいのにね。いじめるほうも、いじめられるほうも、何かを抱えて、苦しんでいるのだろう。
いつどのタイミングで立場が変わるかなんてわからない
歩にとって親友だった友だち。中学校時代、本当に大切だった人。同じ高校に通いたいと勉学に励み、追い越そうと思っていた背中をいつの間にか追い越していた喜び。そして高校に自分だけ合格してしまった後ろめたさ。その時は、歩は自分が受かって嬉しかったし、落ちてしまった親友になんて声をかけたらいいのかわからなかった。親友は歩を憎むことでしか、自分の心を保てなくなってしまった…
受験なんて、点数が足りていれば受かるし、ボーダーに届いていなければ落ちる。そういうものだ。普段から一生懸命勉強していた人を、あまりがんばっていなかった人が追い越すことなんてよくある。ポテンシャルがあるくせに、いざという時が来るまで使わずにいる人ってたくさんいるんだよ。普段から勉強している人は、これ以上どうやったらいいのかわからなくなっていたり、自分のやり方に固執してより合理的な方法を飲み込めなかったり、焦って失敗しやすくなったりしやすい。学校の中で成績がいいことを棚に上げて、受験も大丈夫だろうって努力量が劣ることだってある。付け焼刃でも受験では毎日の努力なんて関係なく抜き去られることがある。それはよくわかっているべきなんだよ。そうだとも知らずに大切な親友を傷つけることを選ぶなんて…友達って、難しいね。ただ、こういうときこそ、相手をどれくらい大切に想っていたかがわかる。友達には、結果がお互いどうであれ、心から祝福できる相手を選ぶべきだろうと思う。歩はこれに傷つき、リストカットするようになり、誰のことも信じられなくなってドツボにハマっていた。そんな経験したくないけど、シミュレーションは必要なんじゃないかなーって思う。誰かに傷つけられることも、自分が誰かを傷つけることも、意図していなかったことだとしても起こり得るのだと、知っていなければ辛すぎる。
理解したいと思うことがカギになる
自分が間違っていると突き付けられたとき、それを素直に認められる人は本当に立派だと思う。ムッとするし、イラっとくるし、プライドが傷ついてやり返したくなったりする人だっている。確かにすべてにおいて自分が正しいなんてことはないと、大きな枠で言われればわかるのに、自分が知った(つもりになっている)範囲の事で口を出されるとムカつくよね。そこで否定ではなく、正直な気持ちと意見を冷静に言い、分かり合う道を探すことをしなければ、言ったほうも言われたほうも逃げていることになるだろう。もちろん、誰かを傷つけるようなもの・命に関わるようなものはすべて許すべきではない。それを許したらもはや生きていくための道は周囲がすべて敵のサバイバルだ。歩のように、辛くて逃げだした自分を認め、今のままではだめだと自分で気づき、未来(みき)のためになる選択をするような人が1人でもいてくれたら、関わる人たちに幸福をもたらすと思う。
スケールをデカくすると、生まれた国・生まれた土地で学び、受け継いできたものが必ずあって、文化的背景・信じたい道が違うからこそ、その正当性を主張し、譲れなくなってしまうんだろうと思う。子どものころからそうやって生きてきた。それを覆すような概念は恐怖でしかないという人もいるだろう。そこで勇気を出して行動できるかが、進化できるかどうかを決めていると言えるんじゃないだろうか。
歩の必死さが伝わり、傍観者だった園田くんが動き出してくれたこともあった。1つのきっかけがまた別の動きを呼び、愛海の立場を逆転させていく。何が最善かは、いつでも入れ替わる可能性があるし、変えていけるのは自分自身しかいないのである。
自傷行為はやめたいよね
リストカットって、いじめられた人のはけ口になる、よく漫画で見る方法だった。リストカットをすると、どこにぶつけたらいいのかわからない心の痛みが、体の痛みに変換されて感じられることにより、心の落ち着きを取り戻せるらしい。今ではむしろそうやって自傷行為をするシーンを見せる漫画は減ったかな…読んだ人がやるようになったら怖いもんね。それに、心の痛みのはけ口の幅が広がりすぎたからね、現代は。ネットで吐き出す方法もあるから。
歩が未来(みき)に出会って、強くなることを目指して行動した。リストカットしてしまいそうな自分を抑えて、欲望に打ち勝っていく姿は、歩が確実に成長していることを教えてくれるし、これから闘っていく強さも表している。
愛海みたいな直接的かつ大々的ないじめをする奴は、最近はほとんどいないかもしれない。SNSでの攻撃、精神的苦痛・恐怖を植え付けるもっと怖い手段に出ていることが多いのだろう。先生も気づきにくいのは確かだ。そこをわかってあげられる、どんな些細な変化も見逃さない、オトナが近くにいるべきなんだと思う。
子どもを守れるのは大人しかいない
歩の親も、戸田先生も、愛海の親も。みんなどうしようもなかった。そんなオトナしかないから、子どもたちはおかしくなるんだと思う。もっと早く話ができていたら、誰か一人でも何かを変えようとしてくれたら。歩はこんなに回り道することがなかったかもしれない。環境が人をつくるのだから、そういう気持ちで子どもに接する大人になるべきだと思う。
ただ、回り道をしてでも、歩が未来(みき)とがんばるという道を選べたのは、時間がかかっても歩が自分の力で一歩進むことができたからである。それは本当に歩の力だし、褒めてあげるべきことだろう。変わりたいと願い、変わるための行動を起こすかどうかは、やはりその人間次第ということになる。
5教科勉強するのも大事だけれど、幅のある人間を育てる授業っていうのが大事だよね。道徳とかめっちゃ手抜きに授業された記憶があるけど、その時間はただ道徳の教科書を読ませられてた。本来はシミュレーションくらいして、心の機微について考える時間にするべきだったんじゃないだろうか。教育は、変わりゆく時代の中で適応していけるように、強くなる方法を教えてあげるものでなければならないのだろう。これからはより一層、大事になるはずだ。
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