原題の意味 - 処刑人の感想

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原題の意味

5.05.0
映像
4.5
脚本
4.0
キャスト
4.0
音楽
4.5
演出
5.0

目次

原題の「路地裏の聖人達」について

この映画を観て最初に印象に残ったのは仕事場に着きそこでの一騒動を描いた部分である。女性の新入りとの諍いでの喧嘩、その後に続く酒場でのギャングとの揉め事。そういった部分を観ていると私の中にある「路地裏の者たち」という印象にあっている。つまりは主人公たちを路地裏に住むような者達というように見せるための部分なのだろう。そこからの悪人だけを裁く者になったことを指して「聖人達」としたのだろうか。しかし私には別の意味にも取れた。聖人とは悪人を裁き殺害するようなものだろうか?聖人とはそういったことをしないようなものに思える。ならば原題の「路地裏の聖人達」とは違うのではないか?いや恐らく「路地裏」とは表の舞台に出れないものたちや、街の裏側などといった何かしらの裏側などを指す意味合いもある。ならば原題は表の者達が裁けないものたちを裏側の者達、その裏の人間であるが善人である聖人、主人公たちが裁くというものではないだろうか。

スメッカ−捜査官の変化

当初FBI捜査官としてコナー達兄弟の起こした事件を捜査していた。しかし物語が進むと共に、彼の心境にも変化が訪れる。それはまるで観客と同じように。私はスメッカー捜査官は観客達なのではないかと思う。ただ画面の中にいるか画面の外にいるかの違いなのではと。物語を観ているうちに感化されていくことに違いはないのだから。

悪人と善人の違い

この作品を観て価値観が多少なりとも変わった人は多いはず。悪人を倒すために自ら悪人へと変わっていく主人公。だが善人としての心も忘れず。世間一般からすれば彼らもまた悪人かもしれない。だけれど私は裁判所での演説を聞き思った。見て見ぬふり、誰かがやるだろう、自分がやらなくてもいい。そんな世間の無関心。この作品の根幹にはそれがあるのではないだろうか。この演説を聞いたあとに最初から見直すとまた違って見えた。そもそもの問題は無関心。無関心がはびこったことによりこの兄弟は神からの啓示を受けたのではないか。思えば冒頭の協会での説教のシーンでもこれを暗示させる話をしていた。多くの映画にはテーマというものがある。それは家族の愛であったり社会の問題であったり、その次代の問題。作者の思いが込められている。今の時代でもこの問題は多い。「悪とは無関心である」 この言葉は正しいのではないだろうか。他人の心に無関心であるから他人を陥れ。無関心であるから殺人をし。窃盗、強姦、恐喝。それら全てが他人への無関心が生む罪なのだと私は思う。

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