残酷さと美しさ、光と影、争いと平和、人間の明暗を描く異色作
白土三平の絵にそのまま声がついている!?
本作は1967年公開されているので、まさに半世紀前の作品だ。
白土三平原作の劇画を切り取り、そのまま画像化して声を付けるという作風で、さすがに作今のCGアニメに慣れた人には絵が動かない、というのは退屈かもしれない。
言ってしまえば紙芝居みたいなものだからだ。
しかし、もともとの絵に魅力があるので、思うほどの違和感はない。
いや、ある意味、マンガ原作をアニメ化した時の微妙なキャラの違いなどが無いと考えれば、白土ファンならずとも下手に動画アニメにされるよりいいかもしれない。
なんたって50年も前の作品なのだから、画像レベルなんて言うだけ野暮だ。
それ以上の魅力が本作には確かにある。
では具体的にその良さを語っていこう。
キャラの魅力が多彩
本作はキャラの魅力と支配階級の打倒というテーマが上手く混合した傑出した作品と言える。
この項ではまずキャラクターについて語ろう。
正統派二枚目ヒーロー結城重太郎と、やはり正統派のヒロイン明美、この二人は容姿が美しく、行動原理が明確なので視聴者が共感しやすい理想的な主人公だ。
何と言ってもこの二人のすらりとした立ち姿が凛々しい。
特に走るシーンや飛ぶシーン、刀を構えるシーンなどで見せる伸びきった片足が異様なまでにセクシーなのだ。
手元にある白土マンガ、またはネット検索ででも画像を確認してほしい。
特に見てほしいのは膝頭とふくらはぎだ。
マンガ独特のデフォルメと骨格をとらえたリアルさが上手く融合している。
一方、影丸や蛍火といった美しいとは言い難いキャラたちの魅力も光る。
影丸はその肩幅や厚い胸板がビジュアル上の魅力だが、更に特徴的にはその不敵な目だ。
その不敵なまなざしから繰り出される、術の多様さ、戦闘様式のトリッキーさは全く飽きがこず、彼が死ぬ瞬間まで次は何をしてくれるのかと期待できて面白い。
他にも影一族、坂上主膳、織田信長、上泉信綱ら新陰流の達人たち、様々な人々がこの世界を構成している。
無情な闘い
無双の強さを持つキャラが多いので一騎打ちの戦闘シーンを見たいと思うが、白土三平の作品は強さや勝利だけに主眼を置かないので、集団対一人で無残に倒されていくという描写が多い。
重太郎が主膳、蛍火と明智10人衆に取り囲まれ、善戦するも数の力に押されていくシーンは本作の中でも有数の見どころだ。
大島渚監督の演出もその臨場感を上げている。
「鉄びし又はまきびし」、「目つぶし」、「油袋」などのテロップが画面いっぱいに出るシーン、唐突だが文字にすることで止まっている画面にアクセントをつけている。
そこに襲い来る地走り、その恐怖感を煽った直後に彼を助けに入る明美、助かるのか、と思わせておきながらも、けが人を連れて野ネズミから逃げる術は無く、絶望に襲われる主人公たち。
重太郎を土に埋めることで助かってくれと願うしかない明美が哀れでもある。
このシチュエーションは手塚治虫の「ジャングル大帝」で戦いに倒れたレオをアリの大軍から助けるために、レオを愛するライヤが取った行動と同じで、本作に先立って1950年代前半に書かれているジャングル大帝へのオマージュだろうか。
とにかくスキル的に無敵とも思える各キャラは、時に意外とあっさりと死に至る。
ヒロインでありあれほど美しかった明美も死後は容赦なく虫の餌となり、不死身と思われた影丸も牛に五体を引き千切られるという最後を遂げる。
結局白土漫画において、一人の人間の命は実にはかないものとして描かれる。
影丸が目指す世界
彼は権力構造を嫌い、農民たちを扇動して一揆を主導する。
権力者である城主や家老だけを殺すだけではなく、城ごと焼き払い、権力構造自体を無くそうとしているのだ。
悪い代官を倒す、という時代劇ドラマにありがちな発想ではない。
特定のトップを倒したところで、別の役人がその座に就くだけのこと、農民たちの苦労は何も変わらない。
数々の為政者を倒してきた影丸がそれを知らないはずはない。
では彼はどんな世を目指したのだろう?
侍のような強者が無く、全てが農民である、という世の中だろうか?
しかし、多数の人間が共存するためには、その集団のルールを決める代表者やそのルールを守らせるシステムが必要であり、その役に着くものは最初は同じ立場の農民であっても、次第にその権力の威を借るようになる。
では人間はいつまでも平等な世を作れないのだろうか?
どこまで意識していたかわからないが、彼は権力構造や権力者が腐敗した時にいつでも立ち上がる民衆を育てたかったのかもしれない。
一揆とはある意味で最強の権力監視システムである。
しばしば権力者が平民を皆殺しにするような映画や漫画があるが、現実には平民が全ていなくなってしまえば権力機構は成り立たない。
税収が無ければ国家は存続できないし、そもそも生産者がいるから権力者という存在が成り立つというのは誰が考えても簡単に分かる理屈だ。
現在の民主主義国家の多くは報道によって権力者を監視しているが、このシステムの場合、報道機関は純粋な生産者ではないため、知らせるべき内容が生産者寄りになりにくいという欠陥がある。
容易に一揆によって為政者が倒される機構を作れば、権力者(あるいは代表者)は生産者を対象とした政治ができるのではないか?
影丸が考えたのはあるいはそんな未来図なのかもしれない。
光と影
キャラクターの個性や立場が複雑に絡み合う本作だが、明暗などがわかりやすい対の関係が複数描かれている。
男性の主人公格である影丸と重太郎がもっともわかりやすい例だろう。
影丸はその名の通り「影」として生きる忍者であり、一揆を支援する立場上表に出ることは多いが、自己実現のための戦いはしない。
一方重太郎は元々伏影城の城主の息子であり、身分の高い生まれである。
しかし、家老の謀反で追われる立場に転じ、以後は最後まで日の当たる場所に出ることが無く、彼の行動規範は坂上主膳への仇討ちや明美を失ったことへの復讐と、常に私怨である。
見た目についても対照的で、武骨でマッチョな風貌の影丸、細面ですらりとした重太郎、カラーリングも明瞭に黒と白、という徹底した対象ぶりだ。
一方、世の中に対する考え方としては影丸が明、重太郎が暗である。
影丸は「勝ち負けは問題ではない。要は目的に向かって近づくことだ」「多くの人が幸せに、平等になる日まで戦うのだ」「目的に向かって一歩一歩進む。それが人の生きがいというものだ」と理想を語り、それを聞いた重太郎は「そんな夢のような世の中が来ると思うのか」と吐き捨てる。
最終的にも死に至る影丸、生きていずこかに消える重太郎と最後まで対照的だった。
ヒロイン明美と蛍火も完全に対象的存在だ。
その生まれは忍びの血を引くという意味で似通ってはいるが、二人ともに重太郎という一人の男を愛しながら、彼に寄り添い夫婦となることを叶えた明美、愛を口にすることも出来ず、むしろ重太郎から憎まれる立場であり続けた蛍火、という明暗に分かれている。
その最後は二人とも惨殺されるという共通点はあるものの、重太郎の子を身ごもりそれを生み育てる事を望みとしていた明美は、最後の瞬間には無念と苦しみしかなかった。
蛍火も無残な死を遂げるものの、自らの命を使って影一族を壊滅させるという目的を達したという意味では彼女の方がいくらかでも望んだ形の死を迎えたのかもしれない。
蛍火の最後の戦いで「術か死か」「忍者は術に生きる。死しても術が残れば」という言葉が印象的だ。
忍法に徹して影丸の師であった無風道人と、その「陰の流れ」を邪道と言い切る上泉信綱もまた対の関係だが、この劇場版では今一つ登場シーンが薄いので二人の考察はまたの機会としよう。
このように多くのキャラクターが交錯する本作だが、光と影という捉え方の方向を変えれば、本作の登場人物は全て影に属しているとも言える。
人を切ることでしかその生を全うできない人物ばかりだからだ。
このような無常を描ききる中で、影丸が掲げる平等な社会という理想、その救いに我々は一歩でも近づいているのか、という問いがいつまでも心に残る
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