若き書道家が島に訪れるということ
島独特の文化に触れる
「ばらかもん」という作品において切っても切り離せないのは、五島列島での生活ではないでしょうか。私は島の生活に馴染みがなく、当然島の生活に関する知識は持ち合わせていないのですが、若い書道家である主人公の視点を通じて、島独特な文化に触れることができます。何よりも作者の体験が込められているためかリアル、非常にリアルなのです。不便で昔ながらの生活が残っているような全体的に田舎みの溢れる世界であろうことは島に行ったことがない人でも想像できのですが、そんな簡単なことではないですし、それだけではありません。私たちが考えている島に住む人々のイメージは、長年島に住んでいる高齢者たちであることが多い。少なくとも私はそうでした。ただ、島に生活しているのは高齢者だけではありません。中学生、高校生もいれば、当然「なる」のように小さな子どももいます。その子たちが、必ずしも島の高齢者のように馴染んでいるかと言えばそういうわけでもありません。全く島の様相を持っていないのではなく、内地の人々(作品の言葉を借りれば)と比べると小さな島で育ったおおらかさは当然島育ちらしさと言えるのだけれども、彼らは島を出ていくことも想定しているし、若者らしさも当然持っているのです。島の文化を大事にしつつ、現代社会の中で新たな道を切り開いていこうとする島育ちの子どもたち。子ども達との交流が描かれていることで、島の文化がいきいきと新鮮な風味で伝わってくること、それがばらかもんの魅力の一つなのだと考えます。
島を訪れるということ
島の生活をいきいきと伝えるために重要な役割を果たしているのは、やはり主人公の半田清舟であることは明白でしょう。東京人、都会の人間であれば誰でも良かったのかといえばそうでもない。また、そもそも半田のような人間が島へ向かうということ自体、通常であれば考えられないことでしょうから、半ば島流しのような状態で島へ向かうという理由がとても自然で、全く島の生活を理解できないタイプの現代人として島での生活をスタートすることができたのは読者視点で見ても共感しやすいポイントになっていると思います。島に良いイメージを持ち、何らかの立派な志を持って行けば、やはりそういう視点での描き方になるところ、半田の戸惑いを残した視点が読者にはしっくりくるため、「ああ…自分が行ったらこうなるな」と追体験することもできます。ある意味、主人公が従来の主人公らしくないのがこの作品の魅力ではないでしょうか。何か大層な意志を持って行動している主人公の姿は、私たちに憧れの存在として勇気を与えますが、いくら舞台が実在する島の話であったとしても、そこにリアリティーを感じにくく、読者としてはファンタジーとしてしか捉えられないこともままあります。しかし、書道に関しては一流、人間的には未成熟な都会っ子が島の生活に触れて、驚き奮闘する姿は非常に滑稽ながらも、リアルさを残しつつ面白味がある体験として描き出されているように感じます。島を誰の視点で描写するのかと考えた時、半田以上の適任者はいないのではないでしょうか。
気付けば島に巻き込まれる
肩肘張らない半田の島生活とともに島生活を楽しんできた読者は、半田とともに島に馴染んでいることに気づかされるのではないでしょうか。本のタイトルは言わずもがな、毎話のタイトルに入ってくる方言、作中に登場する方言は地元の人でなければ聞き馴染みがないはずなのに、ばらかもんの刊行と共に島生活を重ねてきた読者であれば不思議と「分かる」気がします。小文字と大文字で表現された言葉が、小気味良いリズムで目に飛び込んできます。かっちりとしていない方言ならではの緩やかな平仮名の並び、さながら歴史的仮名遣いのようなどこか古さを感じながらも、それが島に住む子ども達の口から語られると、いきいきと今を生きる言葉としてストンと私たちの心に落ちるような気がするのです。島の生活と言いつつ普段の生活の中での出来事、非常に狭いコミュニティでの日々の生活、言葉、仕草が半田を取り巻く姿がとても自然に存在しているため、心地良く島の生活に馴染むことができるのではないでしょうか。言葉こそすぐに移らないにしても、半田が東京に帰っている間に物足りなさを感じてしまうように、少しずつ島の風景に半田がいることが当たり前になっていく過程は感慨深いものがあります。その土地に「染まる」とはよく言いますが、ばらかもんの世界に「染まる」には、島の文化は少々ディープなのでしょう。決して染まることはなく、あくまでも「巻き込まれる」であるからこそ、いつまででも島にいる半田は面白いし、読者が共感の対象として投影しやすいのではないでしょうか。
島で生きる人々との出会い
この作品では、島の独特な文化や風習の面白さだけではなく、まさにその島で生きている人達とのふれあいが重要なシーンに使われることが多く、半田の成長や心の整理において重要な役割を持っていることがあります。漫画や小説、映画などの作品において、主人公の成長には人との出会いが大きく関係していることが多いため決して珍しいことではありません。しかし、この作品では島の人が重要な役どころを担うことが多く、中でも半田の一番近い存在であるなるは何度も半田の心を動かしてきました。島で生きる人々の独特な言い回しは押しつけがましくなく、特になるの言葉は子どもらしく全く的を射ていないように見え、時には笑いさえ起きてしまうのに、不思議とストンと腑に落ちる感覚があります。なる本人は自分の感覚のまま素直に吐きだしたはずの言葉なのに、そこに励まそうとか導こうという意図がないため、不純な感情を一切受けずに自然に受け取ることができるのですが、こういった経験が都会でできるかと想像すると難しさを感じてしまいます。都会でも同じような感覚を持つことができないとは言わないのですが、隣に住んでいる人の顔も知らない現代社会において、そもそも20代の男性が見ず知らずの子どもと接触する機会はほぼないと言っていいでしょう。接触できたとしても、毎日のように自宅に子どもがやってくる、家族のようなふれあいをする、などといったことは滅多にできないでしょうし、それをされて煙たがらずに受け入れる側の心積もりも必要で、半田となるの関係は、そうそう確立できるものではないでしょう。
育った環境が違う二人の関係
特になるは、島の子の中でも祖父と暮らしているだけあって、特に島に馴染んでいる子どもと言えます。先述した通り、中学生や高校生、あるいは友達のひな達のような現代っ子の様相を兼ね揃える子よりも島の子らしさを持った子だと言えます。そして、ある意味で都会に育ちながらもピュアな心故に都会の決まりきった生活の中からはみ出してしまった半田、二人は育った環境は違えど、よく似ているのではないかと思います。それはキャラクターや性格といった話ではなく、もしかすると単純に半田が都会育ちとは思えない純粋さを発揮しているだけなのかもしれませんが、なんだかんだで煙たがるようなこと言いながらもなると過ごすことを自然と受け入れ、そばに置いていますし、いつだって二人は近い距離で共闘してきました。そう考えると、都会育ちなのに純粋な半田が戸惑いながらも島に根付いていく様は、とても自然で応援したくなります。なるにとっても半田は特別なのでしょう。大好きな人は島にもたくさんいたけれど、島に慣れてしまった大人とは違う新鮮さ、下手したら子ども以上に子どもらしい頼りなさを残す半田に対して、大人としての尊敬を持ちつつも、完全に対等な関係なのではないでしょうか。それは半田から見ても同じことで、子どもだから当然未熟な部分はあるのだけれども、島の生活としては大先輩、教えられることも沢山ありました。子どもとは言え、なるは半田の島生活には欠かせない存在で、そこにはもう年功序列のような関係はないのかもしれません。そういう関係性だからこそ、二人が影響し合って成長していく過程はとてもすがすがしく、不器用ながらも一生懸命で応援したくなるのでしょう。合理的に何でも無駄なくを良しとする世の中で、遠回りしながら成長していく二人の関係はとても新鮮で、私たちの心を打つのではないでしょうか。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)