生と死を描いた山岳マンガ - 孤高の人の感想

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孤高の人

4.004.00
画力
4.75
ストーリー
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キャラクター
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設定
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演出
3.00
感想数
2
読んだ人
2

生と死を描いた山岳マンガ

3.03.0
画力
5.0
ストーリー
3.5
キャラクター
4.0
設定
2.5
演出
1.5

目次

山岳マンガとは

登山マンガ、山岳マンガというジャンルは、スポーツ、恋愛、ファンタージーといったジャンルに比べて数が少ない。筆者も読んだ山岳マンガが 「神々の山嶺」 「岳」 「告白-コンフェッション-」 と、本作 「孤高の人」 くらいしか思い浮かばない。この記事を書くに当たって他にもあるのかと調べてみたが、やはり総数が少ないようだ。

数が少ないのはなぜだろうかと考察してみた。そもそも山に登るというスポーツに人気がないのか?というと、実はそうでもない。最近ではボルタリングが若い世代にも人気があり、専用のジムも日本全国に点在しているし、映画では、「運命を分けたザイル」 「バーティカルリミット」 「クリフハンガー」 「K2」 など大ヒットした映画も多い。山登りに魅力がなければ人は山に登らない。しかし一方で毎年のように 「山の事故」 のニュースを見て、多くの人が、「なぜそんなに危険なことをするのか?」 と思うものも事実である。

山岳マンガの行き着く先は正にそこで、理解しがたい行動の先にあるものを山岳マンガ家、小説家、映画家は描かんとしているわけである。そして数々の作品がそれを物語っているのだが、それが重いのだ。雪山で遭難し、命と向き合い、そして死んでゆく。生命というテーマは必ずついて回り、それが物語を重いものにしてしまうのだ。

本作、「孤高の人」 も例に漏れず 「生命」 を考えさせる物語にはなっているが、山岳マンガはただのサバイバルマンガではない。また、好き好んで危険に身を晒し、死の直前で生命を感じるという歪んだ性格の変人を見るマンガでもない。ここを誤解してしまうと、登山家に失礼なのではっきりと書かせてもらうと、本作を読み、登山には 「夢と挑戦」 があると感じられることが出来た。ここに山岳マンガの魅力があることは間違いなく、人々を魅了する何かがあるのだが、これを描けるマンガ家が少ないというのが、山岳マンガの数が少ない理由になるのだろうと思う。生きることを描くマンガは数あるが、登山における魅力は登山を経験し、感じたものにしかかけない。だからこそ山岳マンガを描けるマンガ家が数が少ないのだと考えるものである。

なお、「山登りは楽しい!」 とストレートに言える作品も無くはない。「山と食欲と私」 「ヤマノススメ」 などがそれで、なるほど山登りも楽しそうだなと感じる作品である。この2作品も読んだが、しかし、ここに生命をテーマとした重みはない。これらはあくまでも近年人気のレジャーとしての山登りという位置づけであり、ヤマガールなどという言葉が流行り始めた頃の作品である。ピッケルやアイゼンを装備して気を抜くと死ぬぞ!という絵柄ではないので別物とさせて頂く。

 孤高の主人公

本作の主人公は、加藤文太郎という大正から昭和にかけての有名な登山家がモデルになっている。日本におけるもっとも有名な登山家の一人で、31歳という若さで亡くなっている。現代の日本にも有名な登山家は多いが、加藤文太郎が登山に挑戦したのがおよそ一世紀も前の話である。現代のような装備や知識がある時代ではない。そんな時代の登山家であるがゆえに、登山家の中では伝説の人という印象があるようだ。元々は新田次郎の小説、「孤高の人」 があり、本作はそれを原案としている。マンガ番の 「孤高の人」 は、舞台を現代としている。このことは正直驚きであり、マンガ家、坂本眞一の大いなる挑戦であると感じた。主人公は現代を生きる男子高校生として登場するのだ。なお、それ故にマンガ版では、「原作」 ではなく 「原案」 とされている。

孤高とは孤独で超然としている様を意味する。もっと分かりやすく言うと、一人かけ離れて高い理想を持つという意味であるが、本作の主人公は、冒頭より、ただ、「孤独」 として描かれている。周りに馴染めず、近寄ってくる者はどこか癖の強い人物ばかりで、主人公は人間不信を患っているといったものだ。例えば主人公を理解しようとする高校教師がいるのだが、物語前半で滑落し死亡(落石による事故)し、孤独で良いとする主人公に手を差し伸べるという人物をを奪っている。この事故は主人公をますます孤独にし、山に登ることだけを考えて生きるという生き方へと導いている。やがて主人公は社会人となるが、会社の人付き合いも不器用で、金銭的にも貧しい生活を送っている。、登山に対してはストイックであるものの、その姿に暗い影が色濃く描かれている。本作で主人公の心の安寧を描いたシーンがないわけではなく、結婚と、妻の出産というエピソードがある。このエピソード最終回に向かうまでの重要な事件であり、最終的には、死の淵にいた主人公を生還させる 「生命のつながり」 という結びへつながっている。

では、何を持って本作を孤高としているか……であるが、一つは結果としてK2を無酸素のまま単独登頂させたこと、そしてもう一つは、孤独を知り、生命のつながりを悟り、不世出の登山家としての死を持って、この言葉を表しているのだと思う。

人はなぜ山にのぼるのか?

人間という生き物は他の野生生物に比べて、非常に弱い生き物である。毎日最低でも1.5リットルの水を飲まなければならないし、成人男性なら一日何もしなくても最低1500キロカロリーは摂取しなければ生きていけないし、1気圧、酸素濃度20%の空気がなければ健康に支障が出る。一般には2500メートル以上の高度に達すると高山病の危険性が出てきて、場合によっては命の危険性が出るという。そのようなか弱い生き物であるのだが、人は山に惹かれる。日本で一番高い山である、富士山には毎年20万人以上の登山客がおとずれるというから驚きである。

さて、「人はなぜ山にのぼるのか?」 「そこに山があるからだ」 と言うのは、ジョージ・ハーバート・リー・マロリーの名言とされているようだが、調べてみた所、これは誤訳であったそうだ。正確には、「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」 と問われ、「そこにエベレストがあるから(Because it's there. )」  と答えたのだそうだ。

しかし、この誤訳された言葉は、登山を知らない我々の素直な質問であり、未だ明確な回答を得られていないようで、数多くの登山家がそれに答えている。

「科学的目的は、まるでない。単に、達成衝動を満足させたいだけである」 (ジョージ・マロリー)

「生きてきたことの証しができるものと信じている」 (長谷川恒男)

「僕が山に登る原点は、自分のためなのだ。自分のためにエベレストに登るのだ。」 (野口健)

「人はどう生きるべきか、自分とはいったい何者なんだろうかといった、人間の根本的命題に通じるもののように思う」 (志水哲也)

「(山になにかあるのか?) 何もないさ。ただ好きだから登るだけさ」 (植村直己)

などなど。ネットで検索するだけでも多くの登山家の言葉が掲載されていた。

登山の歴史は、7世紀位からの記録があるそうだが、千数百年の時を経た現代においても、「山に登るのか?」 という答えは登山家にしかわからないのではないかと思うのである。何度も繰り返される問いかけに対し、登山家は言葉を失っているのではないだろうか。だから、「好きだから登るんだ」 という本心ではあるだろうが、子供を諭すような言葉が生まれたのだろうと思う。

ちなみに筆者は登山未経験者であり、ここに語る言葉は持ち合わせていない。一度は 「なぜ山にのぼるのか?」 という問いに対し、我々一般人には理解しがたい行為であると、回答を放棄しかけたのだが、ふと、本作然り、小説然り、映画然り、すべての登山作品は、登山家の為に作られているのか?と思い直し、再度単行本を読み返した。以下は、登山経験者に笑われるような妄想のようなものかもしれないが、本作を通じて、人がなぜ山にのぼるのか?ということを、多くの登山未経験者の読者の側に立って考察してみた。

 

登山とは宗教における悟りを得るための修行のようなものではないかと思うのである。仏教を始め様々な宗教には、苦行に自身を追い込み、あえて極限状態を作る修行があるのをご存知だろう。自らに鞭を入れたり、断食をしたりという行為は現代人にとっては理解しがたい行為に見える。これは一体何をしているのかというと、肉体や精神を極限状態に追い込むことで、余計な感覚がなくなり、ただ思考を鋭敏にすることが出来るから行っているのではないかと思う。死を感じるほど肉体と精神を追い込むと、自ずと 「生死」 「生命」 という事を考えるようになる。また脳内麻薬によって苦しさの中の快感が生まれ、意識は朦朧となり、場合によっては幻覚・幻聴などを体験することが出来る。この特殊な状況に於いて、「人は悟ったような気持ちになれる。」 というのが苦行の正体であると見ている。

話は登山に戻る。宗教と目的が同じとは言わないが、しかし山に登ることで苦行の果てにある何らかの感覚が同じように得られるのではないか思う。気圧も、気温も、酸素濃度も急に変わるものではない。標高が高くなればなるほど、じわりじわりと変わっていくのだ。先にも記載したが人間は弱い動物であるので、この徐々に変化し、順応していく中の苦しさが、宗教の苦行に近いのではないかと思うのだ。雑念が晴れると見えないものが見えてくる。五感が研ぎ澄まされ、ただの岩、草花、風や匂いが、凄まじい情報量となって脳に流れ込んでくる。だから、特別に美しく感じ特別なもののように思える。そして山頂に登った暁には、何かをヤリきったことの達成感と、現世では見ることも出来ないような絶景が待っているのだ。他のスポーツにおいても脳内麻薬という快楽を得ることは出来るだろうが、意識が朦朧として「死にかけている極限の状態」 をもっとも 「安全」 に、「長時間」 味合うには登山こそが至高であると思われる。

と、これが登山を経験していない人間が、登山マンガを見て得られる情報の限界だろう。

誤解を招きたくないので、今一度訂正するが、登山における一種のハイがたまたま紀元前より行なわれた、宗教的な修行に似ているのではないかと思っただけで、山を登る人が 「悟り」 を開くために登るのですか? と聞いても返事はNOだろう。正直、麻薬などの導入に近いものではないか?という表現も考えたのだが、たとえが適切ではないと感じたために避けた結果である。

勿論プロの登山家は、「挑戦」 という意味での精神があり、「夢と成功」 を糧にしている者も多いと思う。だが山に登る際の根本的な楽しみは、この極限状態であり、命をかけても……と思わせるような魅力があるのだと考察するものである。

 生と死の現代解釈とエピローグ

本作における、主人公はモデルを加藤文太郎としているが、実際には原案となった、新田次郎の 「小説の主人公」 を モデルとした、現代の 「加藤文太郎」 である。作者自身があとがきに想いを綴っていたが、現実の加藤文太郎も、小説の加藤文太郎も最後は山で死んでいる。しかし本作は21世紀に描かれるマンガとして、あくまでも 【現代の登山家、加藤文太郎】 にこだわったことが全編を通して読み取れる。だからこそ生き延びた主人公が描かれた。とある。

それは良い。

しかし、やはり何度読み返しても最後のクライマックスからエピローグにかかるシーンには、少々納得の行かない演出が含まれている。間もなく頂上にたどり着かんとしている主人公は、満身創痍で最後の生命を燃やしているようにも見える。作画的な演出や、場面が変わって日本に残された妻の絵が入るのも申し分なく格好の良い演出だろう。が、何故かその背後に 「アメイジング・グレイス」 が流れていることには違和感しか無い。勿論、精神的な面でも、肉体的な面でも、生命と宗教は親しい存在になっているということは理解できるが、何の前触れもなくキリスト教の賛美歌が流れ始めた事に驚くしか無かった。もし本作が映像化してBGMが付くのなら合うのかもしれないが、例えばK2に入る前に牧師の祝福を受けるなど、せめてこの曲に対する前フリくらいは必要であったように思うのである。

また、本作が連載されたのは、200711月から201110月までとなっており(東日本大震災は2011311日)、作者はあとがきに、現代を生きる主人公であるならば、この東日本大震災をも経験したことだろう。と記している。が、この演出にも疑問が残る。主人公が 「生きることを選び」 「登山家、加藤文太郎の死」 をもって締めくくるのは何の問題もない。しかし、「生きる事」 を唐突に東日本大震災へとつなげるシーンがあまりにも唐突すぎるのだ。

物語のは、【伝説の登山家も今や小さな小岩を登るのが精一杯となっていた。小山の上で息を切らせうなだれる姿に、かつての登山家の面影はない。しかし、空を見上げた主人公の横顔には、現代を生きている生者の微笑みが浮かんでいた】 というシーンで締めくくられている。なぜこれで十分としなかったのか。 これが最後まで理解できなかった。

 原作と原案の背景

本作が自信の好みに合わなかったということであれば、講釈を垂れるつもりはサラサラなかったが、本作のクライマックスからエピローグにかけては、作者のエゴが強烈に全面に出てしまったのではないかと思う。クライマックスで脳内BGMを流し、作画を盛り上げるのは結構だが、それを読者に押し付けてはダメだったろう。また東日本大震災は我々日本人全員にショックを与えた大事件ではあったが、震災に対するメッセージに 「生と死」 を重ねたというより、演出に時事ニュースを入れて失敗した。という印象になってしまった。これは作者の人格を否定するものではなく、作者はマンガ家として、人として、やはり東日本大震災に強い感情をもち、被災者に 「生きること」 の応援を込めたかったのだと思う。……しかし、気持ちはわかるが、やるならもう少ししっかりと描くべきであった。明らかに消化不良な演出で、今まで組み上げてきた登山マンガのメッセージも失われ、物語にも悪い影響だけを与えてしまったように思われるのである。本作は新田次郎の小説を【原作】ではなく【原案】とし、単行本のクレジットにも原作を鍋田吉郎としていたが、途中から高野洋に変わり、最後には原作表記が外れ、作画の坂本眞一の単独作品となっていた。この経緯については、何らか大人の事情があったものと思うが、これについて確認は行なわないでおく。作品は夜に出されたものが全てである。

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他のレビュアーの感想・評価

山に魅せられた男のリアル

小説よりもよりリアリティを私はこの漫画が小説から始まった「加藤文太郎」という物語出会ったとは知らなかったのだが、漫画だけでもそのインパクトはすごかった。なんかこう…これだ…!っていうものに出会うまでの悶々とした状態から、出会ったとたんにそれは勢いよく始まって、動き出したら止まらなくて…生きてるって思えるだけの何かを探す人間って、心底めんどくさいし、心底すげーと思わせてくれる。小説版では、主人公の森文太郎はどちらかというとヒーローのような立場。だけど漫画では、ヒーローなんかじゃない、ただの森文太郎がいて、苦しんで苦しんで、山の頂をただ目指す気持ち・渇望がずしんとくる。人と関わるたび傷ついて、歩み寄れたと思ったら離れて…いったい何人死ぬんだよってくらい山で人は死ぬ。そうまでして登りたいと願う気持ち、上った人でなければわからない気持ちがそこにはあるんだろうけど、山登りに興味がなくたって何かに...この感想を読む

5.05.0
  • kiokutokiokuto
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