三大奇書?いやそれ以上
三大奇書
日本三大奇書、なんて言われることでお馴染みの三冊、「ドグラ・マグラ」に「虚無への供物」に、こちら「黒死館殺人事件」。あれ、「家畜人ヤプー」は?とか言っちゃうひねくれ屋さん、どうせ三大奇書なんて、売るために適当にカッコつけた大見出しですから、お気になさらず。なんて言えば元も子もないが……実際、大正時代ならばまだしも、ひねくれた作品がボンボン増えまくってる現代においては、ドグラ・マグラとかは奇書ってほどでもなかったりする。当然、時代を考えたらその傑出ぶりは驚異的だし、色んなものの元ネタの癖に未だに完成度にかけてはトップ突っ走ってたりと、あれはあれで凄まじいのだが……結局その手のものって、最初に誰かがアイデアを考えついてしまえば、そこからインスピレーションを受けた人が似たようなものをたくさん書いてしまうと思うし、書ける作家も少なくないだろう。叙述トリックみたいなものだ。最初に思いついた人の偉大さが無くなることはないが、一つの作品としては、ありふれたものへと変わっていくのは仕方がない。むしろ、ありふれたものへと変わっていったということは、それだけドグラ・マグラはアイデアが優れていたことの証明なわけで、誇りこそすれなんとやらだ。であるから、奇書などと言われても、それが優れたものである以上、続くものが世に出回るのは当然と言える。そして、そうなってしまえば、それはもう奇書ではない。ジレンマだねぇ……。
しかし、しかしだ。この「黒死館殺人事件」に関しては、正直未だありふれてなど全くないタイプの作品だと思うのだが、どうだろうか。
とにかく変
この作品のアイデアを受けて、それに完璧に続き、進化させた小説など、日本には存在しないんじゃないか。それくらいに、正真正銘の唯一無二、空前絶後のドドドドド奇書こそが、本作、「黒死館殺人事件」である。日本三大奇書において、これだけが奇書の名を冠するに相応しい作品とさえ言ってもよいと、筆者は思っているくらいだ。本作は、良かれ悪しかれ、いろんな意味で格が違う。
奇書、なんて言ってしまうと、なにか非常に手の込んだ、従来の小説という範疇に入らないスーパートリックが織り込まれているに違いない!と思うかもしれないが、この小説、筋だけ見れば、ただのバカみたいな似非ミステリーである。推理と呼ぶにはあんまりなこじつけばかりだし、しかも間違うし、迷走して被害者が増えるし……ふざけてるのかっちゅうくらいに、程度が低いミステリーである。んがしかし、本作の魅力は、まさしくそこにあると言ってもいいのだから、不思議なものだ。
私はたった今、似非ミステリーなどと語りはしたが……果たして、その似非の部分を、一読で把握できた読者が何人いるだろうか。
告白すると、筆者はここに、本作のあらすじを書けと言われても、無理である。
わからないあらすじ
この小説が奇書と呼ばれる理由……それは、とにかく何を書いているのかわからないというその一点に尽きるだろう。登場人物たちが証拠集めでもしてるのかと思えば、急に歴史のウンチクを語りだし……それも恐ろしくマニアックな、黒魔術やらなんやらの解説が始まる。刑事たちは、みな、当たり前のようにその話についていく。読者は置いてけぼりになる。とんでもない情報量に、眠たくなって目が滑る中、いつまでもいつまでも意味のないウンチク語りは続く……かと思ったら、それは推理だった。あれ、どういうことだ?じゃあつまりは、この歴史語りは本筋と深く関係していて、本作は歴史ミステリーに大別されるのか?と思ったら、やっぱり意味がないところはまったく意味がない。ミステリーとしては破綻もいいところだろう。読んだことがある人ならわかると思うが、本筋が雑談に覆い隠され、突拍子もなく無駄話が本筋に組み込まれ、またバラバラになっていく本作の形式は、まさしく奇書と呼べるほどに独特の凄みがある。というか、この小説、あらすじを書くだけでも考察と言い張れるんじゃあるまいか。しかしながら、そのハチャメチャぶりこそが、逆にこの小説を奇書のレベルにまで尖らせた要因であることは言うまでもない。
すさまじき天才の本
この小説を読んで、筆者が抱いた感想……それは、「きっとこの小説は、気分の赴くまま知っている知識をドバドバ吐き出しながら、即興芝居のように書き上げたものに違いない」であった。そして多分、それはある程度正解だと思う。まともに筋を考えるつもりなら、明らかにいらない文章が多すぎるからだ。
しかしそうなると、逆にこの小説は、次のようにも言えるわけだ。すなわち、「なぜ、気分で書いた小説に、こんな量の知識を詰め込めたのだろう」と。あるいは、「即興芝居的に、このレベルの情報量をぶち込めるのは、異常だ」でも構わない。
もし筆者が、黒死館並に意味のわからない話を書こうと思ったら、おそらくは、夢の話でも書いてお茶を濁すと思う。それでも、この「黒死館殺人事件」と同レベルに読みにくい話は作れるだろうし、文章力があるならば、変な本というくらいの評価はもらえるかもしれない。が、しかし、小栗虫太郎氏は一味違った。彼は、ひたすら知識を積み上げることで、それを成し遂げた。そこがすごい。忘れちゃいけないが、この小説、書かれたのは大正時代だ。1934だ。しかも、作者がこれを書き上げた場所は、本も何もないような、貧乏長屋であったという。
なんていう無駄で莫大な知識量。
いったいどこで、そんな夥しい量の専門知識からオカルト知識にいたるまでを、作者はその頭に放り込んできたのだろうか。また、そんな多方面に興味など持てたのだろうか。正直、天才としか思えない。まあ、大正時代の文人たちというのは、概ね天才だ。ネットもクソもなかったかの時代、小説を書くのに必要なあらゆる知識は、全て実際にある本から得なければいけないわけだが、個人の蔵書には限りがある。ゆえに本というものは貸し借りが当然で、一度読んだ情報というのが、いったいどこで得たものだかわからなくなることくらい当たり前であったと考えられる。そして、「あぁ、あれを作ったのは果たして誰であったか……確か昔、本で読んだと思うのだが……」と、検索してみようにも、目の前にあるのは山と積まれた日本語・英語・ドイツ語の入り混じった専門書たち……探し直すのも一苦労だ。結局のところ、あの時代に知識を活かした小説を書きたければ、高い記憶力は必須事項であったのは言うまでもないだろう。いちいち情報を忘れて本を漁り直さなければならないようでは、いつまでたっても一冊たりとも書き上げられなかったはずだ。
そこに思い至った時に、はたと本作を読み直してみれば、作者、小栗虫太郎氏がどれほどの水準の頭脳を持っていたかがわかるのではあるまいか。
奇書というより、奇人の書
本作と「ドグラ・マグラ」は、どちらも、読者を煙に巻くタイプの小説という意味においては同一と言える。本来は読者にうまく伝えるべく腐心する内容・あらましを、あえてぐちゃぐちゃにしたからこそ、両作とも奇書と呼ばれるものになったのだろう。だが、この二つの作品の方法論はそれぞれに、果てしなく違っている。「ドグラ・マグラ」は、文章というものが持つ構造上の穴をつくことで、作品内の出来事を把握できないように包み隠したのだが、「黒死館殺人事件」は、ただただ夥しい情報量でそれを成し遂げた。どちらも当然凄いのだが、前者の方法論は、結局は、方法であり、読者を困らせてやろうといういたずら心さえあれば書けるものだと思う。しかし、「黒死館殺人事件」は、そもそもどんな気分で書いたらいいのか、わからない。作者はおそらく書きたいように書いたのだろうが……なぜこの知識量を、ミステリーの形式に無理やり落とし込む必要があったのかは謎そのものだし、もしミステリーを書きたかったのであれば、これだけ筋がハチャメチャなのはおかしい。
何が書きたかったのかまるでわからないのに、執念ばかりは狂気的な本作に、当時の文壇は頭を大いに抱えたという。
結局、「黒死館殺人事件」が奇書たる由縁は、こんなものを一人で書き上げてしまった、小栗虫太郎氏の悪魔じみた執念にこそあるのかもしれない。
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