裏側から突くような毒舌コミカドの放つ真理の光
この時代ならではの、物事の裏側からの視点
2012年放映の、コメディタッチの弁護士ドラマ。
当時、リアルタイムでは見逃していたのだけど、
何やらネットの中で「堺雅人、神!」「コミカド、神!」などと
すごい盛り上がりを見せていたのを目にして興味を持ったのがきっかけだった。
後日DVDで見てみて納得。その後何度も何度も見るくらい、
画期的で革新的な要素がふんだんに盛り込まれてて、
メッセージ性も高いドラマだと思った。
主人公の弁護士、古美門 研介は、
金さえ積まれればどんな訴訟も勝訴に導くという負け知らずの敏腕弁護士、
ただ、勝つためならばどんな手法もいとわない。
正義感や人道などは度外視。
一見すると、悪徳弁護士の権化、ともいえなくもない。
けど、このドラマの魅力は、
古美門の信条には、そういった正義感や人道ゆえに、
私たちが案外見過ごしてしまいがちな真理に気付かせてくれる、
という点ではないかと思う。
彼は言う。
弁護士は神ではないのだから、何が真実かなど分かるわけがない。
我々は愚かな人間なのだから、人間が人間を裁けることなどできるわけがない。
だからこそ、依頼人の依頼を忠実に果たすことに全力をかける、
それが弁護士の仕事なのだ、と。
ある意味彼は、弁護士としてすごく中立だと思う。
弁護士にしろ、検察にしろ、裁判官にしろ、
人に対して何らかの判断を下すものは、
私情に左右されないことは最低限の条件だと思う。
その「私情」の中には、
「○○ということが正義」だということも含まれる。
なぜならば、それはあくまでも、その人の主観の域を出ないからだ。
そこが中立だからこそ、以前弁護をした相手を、依頼があれば逆に訴えることもある。
普通の人ならば、「人情」がそれに抵抗し、なかなか出来ないかもしれないが
古美門はおかまいなしだ。
なぜそれが出来るのかといえば、彼は、すべての依頼主とフラットな立場で関わり、
偏った関係性を結ぶことがないからだ。
古美門が言うとおり、「正義」というものは、
立場が変わればいくらでも変わる。
普遍の正義など、そもそも存在しない。
けど、多くの人が共有して持つ「正義」というイメージは、存在する。
彼はそこに警鐘を鳴らしているのだと思う。
ドラマの中でも、
「一番怖いのは、暴挙と化した民意だ」
と言っている。
「正義」という名の独裁思想は、色んな場面でよく見られる構図だし、
主義主張の違う「正義」同士がぶつかり合うことこそ、戦争の原理だと思う。
彼の手法や発想は、いつも、物事を裏側から突いてくるように思う。
物事はひとつの見方だけではない、ということを、
その反対側から示すことで、一方に偏った視点を切り替えてくれる。
これは、この近年の時代を反映しているなあ、と感じる。
物事の裏側というのは、「裏」というだけあって
表には出せないようなことが多い。
「本音と建前」という言葉もあるけど、現代社会で言うならば
建前が表にあって、本音は言えない、なんて構図も
最早常識といってもいいくらいなんじゃないかと思う。
ただ、近年、そんな建前で成り立っている社会全体が、
そろそろいい加減、建前じゃなくて本音を表にしていこうぜ、
という流れになっていて
だからこそ、ドラマだけじゃなく、バラエティの業界でも、
古美門のような 「裏側から本質を突く」タイプの人たちが
一気に活躍し始めてきたけれど、
このドラマもそんな時期と重なっているように思う。
裏側から突いていく風潮は、まだまだ続いていくと思うけれど
こういうドラマも、もう少しこれからも見たいと思う。
神と評された第九話
ネットで話題になっていた「神」と評された第九話。
実際見てみて、ナットクした。
何度見ても、その回はついつい胸がアツクなってしまう。
魂を揺さぶる、古美門 研介渾身の演説。
このシーンためにこのドラマは存在してるのではないか、
と思うほど。
美しい自然を開発による公害で汚され衰退してしまい、
合併によって「南モンブラン市」と改名されてしまった元・絹美村のお年寄り達を一喝し、
彼らの消えかけていた大和魂を、いのちの誇りを、奮い立たせるのだ。
ちょっと長文になってしまうけれど、
この回のその名場面のセリフをあえて掲載したい。
かつてこの地は一面に桑畑が広がっていたそうですよ。
どの家でも蚕を飼っていたからだ。
それはそれは美しい絹を紡いだそうです。
それを讃えて人々はいつしかこの地を「絹美」と呼ぶようになりました。
養蚕業が衰退してからは稲作に転じました。
日本酒に適した素晴らしい米を作ったそうですが
政府の農地改革によってそれも衰退した。
その後はこれといった産業もなく過疎化の一途をたどりました。
市町村合併を繰り返し 補助金でしのぎました。
5年前に化学工場がやって来ましたね。
反対運動をしてみたらお小遣いがもらえた。
多くは農業すら放棄した。
ふれあいセンターなどという中身のない立派な箱物も建ててもらえた。
使いもしない光ファイバーも引いてもらえた。 ありがたいですね。
「絹美」という古臭い名前を捨てたら
南モンブラン市というファッショナブルな名前になりました。
何てナウでヤングでトレンディーなんでしょう!
そして今、土地を汚され 水を汚され 病に冒され
この土地にも もはや住めない可能性だってあるけれど
でも 商品券もくれたし誠意も絆も感じられた ありがたいことです!
本当によかった よかった!
これで土地も水も蘇るんでしょう!病気も治るんでしょう!
工場は汚染物質を垂れ流し続けるけれど
きっともう問題は起こらないんでしょう!
だって絆があるから!!
年寄りだから何なんですか?
だから何だってんだ!
だから いたわってほしいんですか?
だから慰めてほしいんですか?
だから優しくされたらすぐにうれしくなってしまうんですか?
先人たちに申し訳ないとは 子々孫々に恥ずかしいとは思わないんですか?
何が南モンブランだ!
絹見村は本物のモンブランよりはるかに美しいとどうして思わないんですか!
誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ずに
みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。
しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、
見たくない現実を見なくければならない、
深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない、
戦うということはそういうことだ。
愚痴なら墓場で言えばいい!
敗戦のどん底から、この国の最繁栄期を築き上げたあなた方なら
その魂をきっとどこかに残してる!!!
この回が「神」と評されたのには大きく2つの理由があったろうと思うが、
ひとつは、この長セリフ(実際はもっと長い)を演じた、という
俳優・堺雅人への評価。
実際、このドラマで一気に注目度が増したと思う。
元々実力派俳優として存在感はあったけど、メジャー級に認知されたのは
このドラマがきっかけではないかと思う。
もうひとつは、この長セリフと堺雅人演じる古美門 研介の渾身の気迫が、
テレビという枠を超えて
私たちの現代社会の歪みや、みんなが心の中で思っていることを
鋭く、皮肉も交えながらも直球で代弁してくれたことへの感動ではないかと思う。
たかがテレビドラマ、されどテレビドラマ。
色々と規制の多い業界ではあると思うけれど、
それでもこれが地上派で放映されている現実が、確かにあるのだ。
そしてそれが大ヒット、という。
荒唐無稽のコメディの中に、きらりと光る真理。
そこにはやはり、ついつい希望を感じてしまう。
黛 真知子と古美門 研介の違いから見えるもの
古美門 研介の下で働く女性弁護士、黛 真知子。
彼女は、古美門とは正反対の、正義感に厚い人情派弁護士。
だから、古美門とはいつも対立する。
この二人の個性の違いを見ていると、
それぞれの個性は、どちらも私たちの中に存在している一部だ、と感じる。
真知子の正義感や人情は、私たちの日常の人間関係や営みに
根強く根付いている、なじみ深い人としての在り方の一つだ。
だから共感はしやすい。
私も幼いころ、弁護士という職業は、
真知子が主張するような信念を持った人がする仕事だと思っていた。
けど、そう定義した時、あれ?と、違和感を感じたのを憶えている。
それこそ、私の中の古美門が、
「ちょっとまてーーい!!」と、待ったをかけたのだろう。
確か小学生の頃だったから、その違和感を掘り下げることもなく、
ただ、何かがおかしい、という感覚だけは持っていて、
そのままそのことには特別触れずに大人になったけど、
今改めて思い返すと、その違和感は、
「物事はひとつの見方だけではない」
「普遍の正義など存在しない」
という、古美門の視点ゆえのものだったのだ、と思う。
真知子は、古美門によって、より立体的・複合的な視野が開いていく。
人情や精神論だけでは物事は成り立たない、という、
論理的な発想やロジカルな視点の必要性も会得していく。
だけど、やっぱり人は心で動く生き物で、
正義を超えた、「普遍の真理」でつながっている、ということを
大切にしたいと思うのが、真知子の示す深い在り方なのだと思う。
人によって、自分の中の「真知子」と「古美門」の割合は違うと思うけれど
どちらか片方だけでは成立しない、
両者のバランスあっての「人間」、というものを
二人を見ていると感じさせられるのだ。
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