「私」を語るということ 根本正午“マージナル・ソルジャー” - マージナル・ソルジャーの感想

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マージナル・ソルジャー

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「私」を語るということ 根本正午“マージナル・ソルジャー”

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
3.0
設定
3.5
演出
4.0

目次

人生という檻

社会にでてびっくりするのは、驚くほどルールがバラバラであることだ。社風という名の雰囲気であり、人間関係という実でもあるそれは、たとえ同じ職種であっても細かい業務上の違いがあり、ゴミの分別から挨拶の仕方、上司の接待からWindowsの弄り方まで。技術とは別の価値。作法、マナーのようなものが社会に、会社の、その数だけある。

表現を志す人間というのは大概が極端なのだが、それはある意味純粋とも言える事で、拘泥する何かがなければ自己表現などという一部の天才を除いて途方無い役に立たない一文にもならない聳え立つ糞を生み出すことなど出来ようはずがない。業である。カルマである。しかし世界は世界でいつだって無慈悲で、世界は世界なりに極端だ。それがマナーであり作法でありルールであり、とある誰かAの極端を認めてくれるようにはどの世界もできていない。

一つの檻がある。いや一つとは限らない何重にもなる檻。その中の一番どうにもならない動かしようの無い部分は、生きているという事。生きるということは身体がある、という事。食べ、眠り、生殖する。そのために必要な貨幣。それに、手を伸ばすことが出来るか出来ないかバラバラの個別の身体能力。紀元も意味も不明な各人各様の性癖。

これら決まり事、変えられない枠のようなもの逃れようもないもの。自分の望みではなく与えられたもの。望みではなく望まされたもの。欲望とは常に相対的だが人が独りで生きられない以上決してその欲望から身体から逃れられず、誰もが嫌悪を感じるのはそういった根源的欲望に密接した事を語る時だ。そして嫌悪だけが人を感動させ興味を持たせる。なぜならそれは、誰もが持つ誰かの事で私の事であなたのことだからだ。人が興味を持つのは人のことではない。自分の事だ。マージナル・ソルジャーが「セックスなんてくそくらえ」というタイトルのブログだった頃、noon75こと根本正午があまたのブロガーにコメンテーターに嫌われて愛されて執着されたのはそのためである。根本正午は、たくさんの私とたくさんのあなた達に向けてブログを射出し照射していた。それこそ私小説が、「著者である私」を超えて私小説たるそのための条件だ。

ありえたかもしれないインターネット文学の未来

ブログ論壇とでも言えるものがかつて存在して今も存在しているのかもしれないが、きっと10年前とは全然別のものになってしまってるんじゃないかな、と想像させる手触りがマージナル・ソルジャーにはある。もっともっとみんなが純粋にブログというものに未来を、新しい文学の形みたいなものを信じてた頃の残滓のような。・・・と自分で書いてみてなんてチープな言い草かと思うが、文学というものが「釘一本米一粒とて作らない」無用の長物、ごくつぶしの救いの種であるとするならば、昨今のブログにおける炎上商法やら何かしらのお役立ち情報みたいなものはここには何一つない。怒りと悲しみとそれを増幅するためだけにしか存在していない空虚さに裏打ちされた知性。それだけである。セックスも、障害を持って産まれた我が子も、主人公たるnoon75にも実態はなくてただ文章だけがあるのだ。重ねて言おう。何かがなければ、それは例えば手軽に手淫出来るFC2動画だったりちょっとしたお小遣い稼ぎの枠を踏み越えているアフィリエイトだったりがなければ何もないのと同じ、とみなされる現在のインターネットとは確実に違うのだ。

・・・と言ったふうに口汚く他者を罵る事でアクセスを稼ぐインターネットの魔力に「セックスなんてくそくらえ」も抗えなかったようで、第二章以降は競合するはてなブロガー、ファンメール、有名芥川賞作家の対談本などあらゆるものに噛みつき、傷つき、疲弊してやがてブログはひとまず幕を閉じる。その間したためられた小説、およびその雑誌掲載を経てネット世界に帰還したnoon75が書く第三章は、今まであった「夢のインターネット」から一歩はみ出した文章になっている。

ないものがあり、あるものがない。文学への回帰。

マージナル・ソルジャーは虚実ないまぜの内容に加えて外部からの批判・リアクションに素早く応えることでその私小説の内容を膨らませていった。そこが、新しいインターネット文学的なものの可能性でもあった。しかし、書き手と読者は対等でない。0から何かを作ろうとする者と、1を受けて100を返す者では立場が全く違う。インターネットにおける虚構のフラットに気づいた、いや恐らく気づいていながらにしてその魔力に絡め取られていた著者は、再始動したブログすなわち本書第三章以降徹底して他者との交流を絶った独白形式をとるようになる。

「ネットは、私達を幸せにしてくれるはずだった。誰とでも繋がる夢の道具であるはずだった。実際にそれがもたらしたもの、そのおそるべき貧しさが、私たちを幻滅させ、失望させ、快復することのかなわぬ諦念をもたらした」

と著者は書く。それはまるで性行為が開いてくれたはずだった希望に溢れた安楽の夢が溢れかえる無修正動画の前にもはや失くなってしまったように、彼の描く虚無を象徴するような純文学的回帰だった。しかしそれは、ただ思考実験としての観念または疲弊の結果の実感としての回帰などではない。二章まで行われていた文体の模倣パロディが影を潜めハッキリとした軸を持った事からも分かる通り、それはnoon75が根本正午としての文体を獲得したことを意味する。それは、「誰かに近い私」がなんであるかを咀嚼し、動揺しないということである。本書はただ虚無を描いた私小説ではない。著者が周辺との差異を自覚し取り込み、力強く己を手に入れることで、虚無を認め虚無を描くようになるまでの、私小説作家となるまでを描いた成長物語としての私小説なのだ。

インターネットにも性行為にも未来はあったし、今もある。しかし、それがそれであるだけではどこにもいけない。ここではない場所としてのインターネットは、とっくになくなっている。

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