アーサー王の願い、その間違いについて
間違い
この作品におけるストーリーの大きなファクターに、願いを叶える為に戦う、というものがある。設定を紐解いてしまえば、生き残った勝者の願いが叶うというもの自体が参加者を集めるための酷い欺瞞であることが明らかになるのであるが、主人公含め、それが明らかになるまでは、その権利を勝ち取るために戦い続けている。しかしながら、主人公たちはそれが明らかになった時点ですでに、そもそも願いを叶えることを放棄してしまっている。主人公である士郎には元より願いは無く、前回の戦いの末に起きた惨事を食い止めることだけが目的であったため、願いを叶える権利が終盤手の届きそうな位置に来たとしてもそれを放棄することにほとんど躊躇は無かった。しかしながら、相棒であるセイバーについてはそうではない。彼女は物語の舞台である現代に召喚される前から、叶えたいと抱き続けていた願いがある。文字通り、命に代えても叶えたがっていた彼女の願いを、だが主人公だけは叶えるべきではないと否定し続けていた。それが、主人公たちの軋轢を生むことになったが、最終的にセイバーの側が士郎の言い分、考え方に納得し、願いを放棄することとなった。しかし、この物語の中ではセイバーの願いは叶えるべきではないものとして扱われている訳だが、果たして彼女の願いの在り方はそこまで間違っているのだろうか。その理由を改めて考えてみる。
願い
セイバーの願いは、言ってしまえば過去の改変だ。より具体的には、ブリテンの王の選定のやり直しである。彼女の正体は、アーサー王伝説の主人公、アーサー王その人だ。伝説とは性別が異なり、厳密には名前も微妙に違ってくるのだが、かの伝説においてなされた偉業の全ては、この作品においては彼女が果たしたことになっている。そしてもちろん、彼女の結末もまた伝説通り、仲間割れの末の悲惨なものとなっている。彼女はその結末が許せなかった。自分の国がこんな悲惨な結末を迎えたのは、自分なんかが王になってしまったからだと考え、自分以外の誰かに王になってもらうことこそが、彼女の目的、願いという訳である。
成就
さて、彼女の願いを叶えるということがどういうことかと言えば、言ってしまえば彼女の人生の否定である。ブリテンの王になるものがアーサー王を名乗ることになる、というのであればアーサー王という存在が消えてなくなることはないのだろう。新しいアーサー王が辿る経緯や結末が伝説と同じものになるのか、それとも全く別のものになるのか、それは分からない。だが、新しいアーサー王伝説の中にセイバーの活躍する余地はないのだろう。彼女はアーサー王でなくなり英雄としての資格を失うのだから、この作品のように歴史や神話における伝説上の存在として召喚されるようなこともなくなるのだろう。あるいは英雄として在るの誇りにこそ、自己の存在理由として重きを置いているのならば、この願いの在り方は矛盾する。だが、彼女は自身よりも周囲を優先する性分だったようだ。自身の眼前に起きた悲劇を回避できるのであれば、王でなくなることにも、英雄でなくなることにも、忌避感は無い、ということなのだろう。結局、彼女にとってはそうなることこそ望みなのだ。王としての責務は無い。国がどう滅んだとしても彼女が負うべき責任も無い。逃避と言ってしまえば聞こえが悪いのだろうが、既に起こってしまっている絶望を回避したいと願うのは人の心理としては自然であるし、主観的に見れば、やはりそこに何の間違いも無いように見える。それなのになぜ、それでも彼女は願いを叶えるべきではないと否定されなくてはならなかったのだろうか。
放棄
主人公である士郎がセイバーの願いを否定する、その理由は、自分の人生を否定するな、ということである。彼は自身のトラウマの原因になった出来事を無かったことにしたいと願えばいい、と提案された際も、同じような言い分で払いのけている。曰く、今の自分を、自分の夢を形作るのにこれは必要なファクターであったと、過去の悲劇を共に悼んできた多くの誰かの時間を無意味にしてはならないと、願いを叶える権利を放棄した。結局そういった彼の在り方を見て、セイバーも、結末がどれだけ辛く苦しく認めがたいものであったとしても、それまでの過程が間違ったものでないのなら、確かに自身の過去を変えるべきではないと納得した。
つまるところ、彼女の悲劇や絶望を見たくない、という気持ちが間違いのない自然なものであったとしても、過去を変える、という方法こそが彼女の願いが否定される根幹なのだ。心の動きとして自然であっても、実際に過去を変えてしまうことは、自分自身に対する裏切りである。過去の自分の決断、行動の末の結果が気に食わないからと、後からそれらを無かったことにしまうのであれば、過去の決断や行動、自分の意志の価値は失われてしまう。それこそがすなわち、自分自身の人生の意味の否定だ。まして、かつて王として君臨していたセイバーにとって、それを行ってしまうことの影響は大きいだろう。結末が仲間割れによるものであろうとも、それでも王として在った彼女に付き従った部下や国民の数は多かったはずだ。それを彼女の感傷で、意味が無かったなどと丸ごと否定されてしまっては、いったい彼らは何のために生きたのか。たとえ、彼女が願いを叶えた後で、新たな王の元、より栄華を極めた伝説を共に残したとして、彼女に仕えた人生の意味を否定されたという事実は消えない。その喪失こそ、決して成果で洗い流せるものでは無いはずだ。ゆえに、彼女は彼女だからこそ、過去の改変など望んではならなかったということなのだろう。
人生
結局のところ、悲劇や絶望的な結果にだって、意義や意味はある、ということなのだろう。無論、やはり主観的な観点から見れば、やはりそれは忌避されるべきものであるだろうし、逃げ出したくなるのが自然ではある。しかし、どのような結果、結末にだって、そこに至る過程があり、またその先の過程へと続いていくのだ。当たり前の話だが、その積み重ねが人生であり、その人生の積み重ねが我々の生きてきた歴史となる。ゆえにこそ、特に過去を生きた存在であるセイバーはやはり、どうあっても感傷によって、それらを否定してはならなかった、ということになるわけだ。死人にいちいち過去を覆されては、それこそ歴史など成り立たない。よって立つべき今すら危ういものになってしまう。結果だけを見ずに、過程から改めて省みて、それまでに恥じるべきところが無く、自身の誇りや思想、夢に殉じたのであればそれで良し、と納得することが、それがいかに難しくとも、この物語においてはそれこそが正しい在り方のなのだ。
この作品のテーマはタイトルの通り、運命、ということなのだろう。特にタイトルの単語はデスティニーと微妙に異なり、悲しい定め、悲運などを表すときに用いられるらしい。なるほど、ぴったりのタイトルに感じられる。仮に人生の終わりが、どうしようもなく悲劇的で認められないものであると決まっているとして、それでもその運命を背負うこと。そこに至る過程を、決して間違いなどでは無いと強い意志で生き抜いてみせること。これは、現実であってもそうあるべき心構えであるはずだ。どれほど心の軋むような後悔を抱える結果に直面してもなお、強く前だけを向いて希望を持って死ぬまで人生を走り抜ける、そういった在り方こそが人類が刻むべき足跡なのだろう。
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