社会に抗い続けて完結した傑作
相当の批判があった
月刊少年エース(角川書店)で連載していた当初から、かなりの批判があった。「社会に影響云々」やら「子どもの教育に云々」と言われていた作品で、殺人事件などが起こると「昨今の漫画が原因」などと言われていた。その代表的な“悪い指定図書”(有害図書)にされていたのが、この多重人格探偵サイコだ。猟奇的な殺人事件が行われる、テロが起こる、主人公が多重人格ということで、あらゆる問題を詰め込んだ内容だった。サブカルと言えばこの人、大塚英志先生が原作で、MADARA時代からのコンビでもある田島昭宇先生が作画だ。なんといっても。田島昭宇先生のかっこよくてスタイリッシュな絵柄でファンを捉えつつ、やばい事件が次々起こる、というのは、読解力のない読者にすれば「殺人がかっこよく見える」という問題を抱えていた。ありがたいことに?現実に模倣犯は出現しなかったが、通り魔殺人犯が「多重人格探偵サイコに憧れてやった」と言っていたら一発で連載終了だっただろうし、この作品がしっかり完結まで持ちこたえたのは奇跡的だと思う。人気作だったから、というのは言わずもがなだが、批判の中で連載を続けた製作者サイドの根性に感服する。
田島昭宇の進化
MADARA時代からも素晴らしい作画で評判の田島昭宇先生だが、多重人格探偵サイコにおいて、かなり絵柄が安定したように思う。数々のカラー絵も素晴らしく、物語終盤は大塚英志原作とは言えども、田島昭宇カラーが炸裂した終わり方だったように思う。とくに西園弖虎と美和が精神世界で戦うシーンに関しては、田島昭宇イズムの頂点を見た気がした。
終わらない物語
大塚英志作品に多く触れている人はすでにご存知だろうが、この「多重人格探偵サイコ」は大塚英志の作品群の中の一部に過ぎない。大塚先生の原作漫画(小説も)には、同じ名前の登場人物や、少し設定は異なるが類似する団体が登場することが多い。また、同じ作品の漫画と小説において、ほんの少し違う点があるのもポイントだ。これはあえて、単なるノベライズだけでなく、それぞれの物語を別々に楽しめるようにという作者側の考えではないだろうか(大塚先生ならそうではないと言うだろう)。とくに多重人格探偵サイコに関しては、コミックス、小説、ドラマCD、映像化、舞台化など、様々な表現方法で、それぞれ全く異なるアプローチでの表現が行われている。そして、そのどれもがフェイク的な表現を用い、必ず違和感を覚える内容となっている。もし物語の本筋を辿りたいのであれば、小説版の多重人格探偵サイコを読むといいだろう。コミックス版多重人格探偵サイコもまた、ある意味では「本物」ではなく「本物の流れを汲んだフェイク」にすぎないのかもしれない。大塚英志作品群の一部である以上、サイコとしての作品は完成したが、物語そのものは終わっていないように感じる。
かっこいい、きれい、怖い
最初に単行本1巻を手にしたとき、装丁が美しく、正直かっこいいと思った。グロテスクな表現すらかっこいいと思ったし、死体の描写も美しかった。また、人が死ぬシーンも多く、恐怖の対象でもあった。ただ、ではこれがファッションとしてのかっこよさに見えるだけであるのならば、それは「読めていない」という証拠だろう。表面的な部分しか見ない人間には有害図書に見え、その奥にある作品の本質に触れることができた者には別の見え方がある。おそらく、この作品の描きたかった部分は「笹山が磨知を撃てなかったシーン」に集約されているように思う。あれだけのことがありながら、笹山は雨宮も磨知も嫌いになれなかった。至るところでバンバン人が死に、スパッと人生が終わっていく中で、笹山だけはそれをすることができず、笹山自身も死なずに生き残る。結局のところ、人が死ぬ、かっこいい、派手なアクション、などとは別のところで、人間臭くて小賢しい、寂しくてどうしようもないしみったれの存在が中央に存在している気がしてならない。結局のところ、本当の主人公は笹山徹だったのだと思う。
雨宮一彦というフェイクの存在
主人公として存在する「雨宮一彦」は、久保田拓也の体に宿ったプログラム人格であり、それゆえにとても不安定な存在でもあった。最終的には西園弖虎の体の中に入り生き続けることになるが、今で言うところのAI的な…たとえば、ドラえもんやsiriのような存在で、自然発生した人格ではなく人工的に作られた人格と言われている。一般的に、普通に生まれてここにいる人間としての人格に対し、偽物(フェイク)としてそこに存在しているが、悲しかったり楽しかったり、という感情もしっかり存在する。ここで問題なのは、クローン技術やらAIやらと言われている現代で「人格とはなんぞや」ということだ。これは今後、ハードウェアの開発の次に来る“ソフトウェアの開発”のように、人間の体の次は人格を作ろうぜ、みたいな流れ(現在すでにある)を示唆している。つまり「多重人格なんて、犯罪者が罪を逃れるためについた嘘」や「精神疾患」のほかに、第3の問題を提示している。雨宮一彦というフェイクの存在は、近未来的に「人工的に人格を作ることになる」という、予感なのだろう。
人格とは?「魂」と「データ」
多重人格探偵サイコの主人公、雨宮一彦は多重人格者である。ほかにも多重人格者(というか、ひとつの体に複数の人格が同居している状態であって、精神疾患ではない)も登場する。では、人格とは何か?という疑問が出てくる。簡単に言えば「オバケに憑依されている状態」だったり「人が死んだら魂が抜ける」的な、そういう感じに近い。しかし、ここではどちらかというと「パソコンの中のデータ」という解釈の方が近いように思う。肉体はあくまでデバイスであり、人格は受け渡しができる(作中でもそのような表現が多い)データとして存在している。いわゆるスピリチュアルな観点ではなく、ハードとソフトの関係、という解釈がしっくり来る。そこから考えるに、今後もしかしたら「魂というのは脳に蓄積されたデータでした」という研究結果が出てもおかしくない。さらに言えば「データなので受け渡すこともできるし、別のデバイスに移行することも可能だよ、死んで肉体がなくなってもデータだけは生きることができるよ」みたいな、都市伝説的な展開が来る、かもしれない。多重人格探偵サイコは単なる猟奇的なかっこいい漫画ではない。
キャラクターが魅力的
ストーリーもさることながら、キャラクターがかっこよくて魅力的なのは無視できない。前半主人公の雨宮一彦、後半主人公の西園弖虎、どちらもイケメンでおしゃれだ。さらに、西園伸二の好戦的な雰囲気もかっこいいし、磨知と美和の美人姉妹もかっこいい。渡久地や全一といったキャラも、田島昭宇先生らしくて好き(死んでしまうけど)。恋愛関係になるのかな、と思わせておいて、直接的にはそういう関係にならないところも魅力で、もしそういう関係になっていたら途中で読む気が失せていたかもしれない。好意はあったけど、直接は何もしないところがいい。全編真面目と見せかけておいて、しっかりコメディもぶちこんでくるのが愛嬌で、雨宮一彦が愛される要因だろう。エンディングも余韻が残るような終わり方で、読み終えたときは正直涙が出た。“有害図書”としてファッション面だけ見るのではなく、その奥にある物語の部分をしっかり見て欲しい作品だ。
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