キングらしい緻密な描写と怒涛の展開が楽しめるホラー
いささか安めのタイトルではあるが
原題「’SALAM’S LOT」は、この物語の舞台となる町の名前である。もちろんそれだけではパッと本を手に取ったとき何がなにやらわからないからであろう(そもそも邦題とはそのような目的で作られるのだろうとは思うけれど)つけられた邦題が「呪われた町」では、いささか安さは否めないと思う。少し前読んだ「Duma Key」も邦題は「悪霊の島」だったし、もう少しなんとかならないかというのが正直なところだ。もちろんそう言いながらも長編ながら最後まで読ませる力のあるよい小説だし、読み終わったあとにはそのタイトルにも納得がいくのだけれど、それでもどうしても首を捻ってしまうのだ。原題のままでいいのではないかと思う小説は多いけれど(もちろん映画も)、これもそのひとつだ。
もちろん、小説としての質はさすがスティーブン・キングと言わしめるものであることには間違いはないのだけれど。
映画のような始まり方
映画で時々、ストーリーの最後の場面を冒頭にもってくる始まり方がある。それだけ見ても意味はわからないのだけど、そのストーリーのラストを予感させるような、そして最後まで観てそれから最初のその場面につながる映画だ。あの始まり方は個人的に好みで、そういう始まり方をする映画には他のものよりも余計に期待を抱いてしまうほどだ。そしてこの物語もそのような形をとった始まり方だ。冒頭に出てくる親子とは見えない二人の男性の会話と向かう場所は、この物語の不吉なラストを予感させるに十分だった。
そして小説でこのような始まり方を可能とするのは、スティーブン・キングの手腕に他ならないと実感させられた。卓越した表現力によって文章を映像化させられる彼だからこそ、このような小説が書けるのだろうとも。
映画でも小説でも、盛り上がるところにスポットがあたり、ここ!ここにつながってくるんですよ!と感動的に映像なり文章なり煽ってくるときがあるけれど、その映像力なり文章力なりがたいしたことないと、話はわかるけれどそんなあんまりこっちは感情がついていっていないということがよくある。しかしスティーブン・キングの作品ではそういうことはあまりなく、ほとんど全てが頭の中でうまく映像として像を結んでくれる。だからこそ、今回のような途方もない設定のストーリーでも頭にすっと入ってくるのだと思う。
時に翻訳された文章特有の読みづらいところもあるけれど、それは文章力とは全く関係のないところであり、逆に言うと、翻訳された文章であるのにもかかわらず、ここまで読み手をスティーブン・キングの世界に連れて行ってくれることがすごいのだと思う。
そんな気がした作品だった。
作家が訪れた思い出の町
主人公であるベンは、生まれ育った町に小説を書きに訪れる。幼少期の時に肝試しと称して忍び込んだ、いわば“お化け屋敷”で、小説を書こうと思ったのだけれど、思いがけずそこにはすでに借り手がいたことから、物語はたちまちホラーの様相を呈してくる。
小さな町ながら素朴な人々が暮らすジェルーサレムズロットだが(そう言えばタイトルはセイラムズロットだったけど、どういう経緯でそうなったのかもう一度読み返すにはヘビーな物語なので、追求はあきらめることにする)、皆が皆顔見知りな町ではベンはいくら幼少期に住んでいたとはいえ、よそもの扱いだ。彼とであってすぐ恋に落ちてしまったスーザンは別として、なかなか周りの人々はベンに馴染まないが、それでも少しずつ知り合いが増えてくる。この“田舎に住むものたちが少しずつ心を開く”というところのスティーブン・キングの描写が絶妙で、横目で見ながらも相手を気にしていることが手に取るように伺える(このような描写は、彼の他の作品でもよく見られる彼の文章力を堪能できる、いい瞬間だと思う)。
ベンが幼少期に肝試しで忍び込んだ“お化け屋敷”マーステン館の、いかにもいわくありげなおどろおどろしい描写もよい。そして幼少期のベンがどれほど恐ろしい思いをしたかというのも目に見えるようだ。
この“お化け屋敷”と聞いてよく思い出すのは、浦沢直樹の「20/21世紀少年」ででてくるあのお化け屋敷だ。正確には、首吊り坂の屋敷という表現だったと思うけれど、少しコミカルなストーリー展開ながら浦沢直樹らしいシリアスさを感じさせるあの話で個人的に一番怖かったのは、あの屋敷での一連の出来事だった。体験者が小学生の子供だということが、その素直な恐怖心がこちらに伝染したのかもしれない。あそこの場面はいつ見ても背筋がぞくっとする。
ベンが話すマーステン館の描写は私にいつもこの“首吊り坂の屋敷”を思い出させた。
タイトルの「呪われた町」が示すもの
「呪われた町」と言うからには何か不吉なものにまとわりつかれるのだろうと想像はしていたけれど、吸血鬼だとは想像していなかった。スティーブン・キングの作品では長編短編関係なく吸血鬼はよく登場する。残念なことにこれはアメリカンホラーであり、あまり日本人には恐怖対象とはならない(キングならではの手腕で、夜に読むとなんとなく怖くなる話もあるにはあるが)。だから今回も若干「吸血鬼か…」とテンションが下がったことは否めない。しかしここから読み手を離さないのがスティーブン・キングのストーリーメイキングの素晴らしさだと思う。しかも吸血鬼がでてくるのかと予感させてから、まるっきり鳴りを潜める。この恐ろしい化け物たちが跋扈しだすのは上下巻のうちの上巻の最後あたりでやっとというくらいだ。しかしそこからは怒涛の展開を見せる。
ただ恐ろしいだけではなく
もちろん恐ろしい展開も数多くある。とはいってもスティーブン・キングの文章力をいやというほど感じさせるあの執拗な痛い描写やおぞましい描写は今回にはあまりない。あるのは身内がどんどん変わっていってしまう哀しさと、彼ら彼女ら、もともと身内や友人であった(ベンにとっては恋人であったスーザンでさえ)人たちの胸に杭を打ち込まなくてはならない苦痛だ。親しい人間だった彼らはすでに死んでおり、目の前にいるのはもはや人間でさえないと思っていても、愛した人間の姿形で出てこられると気持ちはそう割り切れるものではないだろう。このような展開は映画でもマンガでも数多くある。最近のドラマでは「ウォーキング・デッド」もそうだし、昔ならマンガの「寄生獣」もこの哀しさをよく出している。これらは理屈だけでは解決できない人間のもろさをついた、いい作品だと思う。そしてこの「呪われた町」もその哀しさをよく感じさせてくれる一つだ。
ホラーとはいえホラーだけではない
いくらホラーといっても恐怖のみしか感じられないのではあまりにも深みがない。最近の映画でよくある、ホラーと銘打っておきながら効果音のみで観客を飛び上がらせるあれは、もはやホラーでさえないと思う。そういうのは論外だとして、恐怖もありながらも、そこはかとなく感じさせる哀しさや侘しさがあれば、一気に物語に深みと幅がでてくると思う。この「呪われた町」もそのひとつだ。加速度的に吸血鬼化していく町ながら、吸血鬼として生きなければならなくなった家族の絆や、気づかれないまま太陽の下を歩けなくなった孤独な老人など、どこかしらこちらの心を締め付ける何かを感じさせる。スティーブン・キングの書くホラーでは時々そのようなホラーなのに哀しいと感じる映画や小説が多くあった(「キャリー」や「ペット・セメタリー」など)。本を読むということは心になにか残したいと思う想いがどこかにあると思う。そういうことはホラーだと成しえないだろうと思われがちだけど、そうではないということにスティーブン・キングの作品に気づかされた。
そしてラストから冒頭のシーンにつながる展開はやはり見事だった。少し調べてみるとやはり映画化されていた。頭の中ですでに映像化はされているけれど、きちんと映画として観てみるのもいいかもしれない。
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