ヤン的奇略とラインハルト的正攻法が結実させた大事業
ヤン的「枠外」の発想がアニメシリーズを走らせた
「腐敗した民主主義」か、それとも「高潔な専制政治」か……、貴族社会や衆愚政治の問題点を鋭く描き出しつつ、様々なテーマと人間ドラマを絡ませ、壮大かつ重厚な戦争と日常を記していった「銀河英雄伝説」の素晴らしさは既に様々なところで語られていますが、本稿ではアニメ版に的を絞ってその歴史的な意義を探っていくことにしましょう。
アニメ版銀河英雄伝説が始まった1988年当時、既にいくつものロボットアニメはありましたし、大人の渋みが滲むような作品も少なくありませんでしたが、そうした作品において語られているのはせいぜい、「戦闘」の現場であり、その上部ですべてを決裁していく「政治」や「歴史」までじっくり煮詰めた作品となるとほとんどありませんでした。まだあくまでアニメは子供が観るものであり、でなければ一部のマニアが観るもの、という空気は確かに存在していたのです。
その中にあって1987年に本編(本伝とも)が完結し、翌88年には星雲賞を受賞するに至った「銀河英雄伝説」は、強力かつ異質な「原作力」を有する作品でした。中国などの歴史とSFの双方を専門とする田中 芳樹氏ならではの重厚な背骨のある世界観、時に粋に、時に格好良い登場人物たち、補給や士気までをも勝敗に絡めた緻密な戦闘や流麗ですらある奇策の数々……、どれも従来のアニメ作品にはない深みのある要素でしたが、ではどうやってアニメ作品として落とし込むのかが問題でした。
TVアニメの場合、どこで放映されるにせよその分「枠」を専有することになります。したがって割り込むのは容易ではありませんし、特に今日よりもずっとアニメの地位が低い80年代ならなおさらのことです。よしんば入り込めたとしても当時は野球中継によって放映時間が変わることなども少なくないなどの問題もありましたし、そもそも、「大人向け」の中でも相当骨太な本作を心行くまで制作するという「無茶」を局が飲むかどうかという問題もありました。しかし、その無理を通せずにはしょったりしてしまったら、原作の良さが削がれてしまいます。
このような厳しい状況の中、本作は当時先進的な媒体の一つだった、「ビデオ」に活路を見出すことになります。OVA、オリジナル・ビデオアニメということで、ビデオ用の撮り下しで作っていけば確かに、放送枠の競争や放映時間の壁にとらわれる必要はなくなりますし、映画館を確保する必要もありません。まさしく逆転の発想、作中で主人公のヤンが難攻不落の要塞を鮮やかなやり口で手中に収めたり、絶対的な防衛システムをすぐさま無力化してみせるような「枠外」の発想で、作品にもっとも向いたフィールドを構築してみせていったのです。
ラインハルト的正攻法が作品を完結させた
もっとも、単に自分たちで作っていけばいい、では、単なる願望や思いつきでしかありませんし、実際、この「奇策」を成就させるには様々な困難があります。TVアニメと同じように三十分作品を一本、毎回作っていくというのは物凄く経済的な負担がかさみます。TVであればCMという形でスポンサーからの収入も見込めますが、OVAならば映画と同じように実収入でペイしていかなければなりません。また、当時のことですから媒体もDVDではなくビデオテープであり、受け取る側にとってはかなりかさばります。もちろん出費も長期に及び、相当な額になってくるでしょう。これらの要素をすべてクリアして、なおかつ製作者側も資金とモチベーションを絶やさず、長期間安定した作品作りをしなければなりません。
こうやって文字にするだけなら簡単ですが、現実には至難と言っていいレベルの難易度です。通常、OVAは単巻から多くても数巻という分量でまとめることが多いことからも、毎週ビデオを宅配し、中断はあるものの極めて長期にわたって同一作のOVAをリリースし続けることの難しさは瞭然です。
しかし、本作はこの難題に対し、完璧な「正攻法」をもって応じました。ほとんど異例と言えるほどの豪華なキャスト、クセがなく作中の雰囲気を損ねない登場人物の造形、奇をてらわず原作の良さを最大限に引き出す脚本に、超長期間の製作にも耐えられるだけの資金……、あらゆるものを用意し続ける必要がありました。そして彼らはその難事業を結局成し遂げたのです。つまりは、巨大な戦力を予め整え、十分に活かし切って戦うという、言うなれば作中のラインハルト流の戦法を成功させたと言ってもいいでしょう。
一般に、「戦力」が増えれば増えるほど、期間が延びれば延びるほど統制を取り続けるのは困難になります。あのナポレオンでさえ、ロシア討伐の際には約五十万人という総兵力をまったく活かせず、往路の段階で極めて多数が落伍するという状況にまで至り、ロシアの冬とロシア軍の粘りの前に壊滅的な被害を受けているわけですから、これだけの「奇策」を前提にして真っ向からの正攻法をやり切るのがいかに困難で特筆すべきことなのかは明らかです。
作品自体、男の意地も意気も、歴史も思想もすべて詰まっている素晴らしいものですが、今日、TVでの再放送やDVDを借りて観るだけでは決して分からない苦労と成功が備わっていたのがこの「銀河英雄伝説」だったのです。もちろん、第一話放送から足掛け十年、外伝まで含めればVHSテープ換算にして百五十枚以上というとてつもない成果を上回るような作品が今後出てくるとは思えません。その意味では後世の参考にはならないでしょう。しかし、あらゆるプロが全力を傾け、そしてファンたちも全力でそれに呼応したことによって成された奇跡のような出来事は、今後とも語られるべきだろうと思います。
新世紀エヴァンゲリオンに「引き継がれた」演出手法と「戦争観」
では、「銀英伝」は単なる突発的に生み出された傑作に過ぎず、そこでの手法を後継する作品がなかったのか、というとそうではない、と私は思っています。むしろ私は、その時代を代表する作品に「受け継がれた」部分があったと考えています。
「銀英伝」OVAが第四期に入り、物語がクライマックスを迎えようとしていた頃、「新世紀エヴァンゲリオン」もまたTV本放送を終えようとしていました。「エヴァ」もまた後に社会現象を引き起こし、後々にまで影響を及ぼした作品だけにすべての要素に見るべきものがあったのですが、終盤に近付くにしたがって元々使われていた迫力あるサウンドでなくクラシック音楽が戦闘の際に用いられていくようになりました。とりわけ、最後の使徒である渚 カヲル戦において壮麗に響き渡る「第九」のインパクトは強烈なものがあり、多くのファンの胸に刻み込まれたものでした。また、「銀英伝」第四期が完結する頃に発表された劇場版(旧劇)においても様々なクラシックの楽曲が用いられ、作品のインパクトをより強めることに成功していました。
「エヴァ」が「銀英伝」を意識していたかどうかは分かりませんが、重要なのは、エヴァでの戦闘シーンにおいても宇宙での艦隊戦と同じように多くの人が熱くなったということです。この二つの成功例によって大昔のクラシック音楽でも吟味をすれば新規楽曲を凌ぐだけの効果をもたらすことができることが証明された、と言ってもいいでしょう。
もっとも、今安易にクラシック音源を使っていくと「エヴァの真似じゃないか」と言われるかも知れませんが、少なくとも、意外な切り口を見つけ正攻法で最後まで取り組むという普遍的な教訓以外に、この極めて飛び抜けた作品群においても他作品、他ジャンルでも使うことができるシステムが発見され証明されていったことは非常に有意義だったと思います。
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