ヤバいを説明出来るなら
マッハ!のアクション
アクションがヤバい。マッハ!についての意見を求めれば誰もがそう口を揃える。かく言う私も初めて見たときの感想と言えばアクションがヤベェだった。極めて頭の悪い感想ではあるけれども。
しかしその頭の悪い感想はあっという間に私の脳を支配。それからと言うもの私はすっかりマッハ!信者になるという有り様。せっかく信者化したのだから、ここは一つ、何がそんなにヤバいのかをお伝えしたいと思う。
なんせ本当にヤバいから。
カンフーはアクション映画の歴史そのもの
マッハ!を語る前に。どうしても避けて通れないカンフー映画についてちょこっと。
完全な主観だけれど。
アクション映画と言えば、やはりカンフー映画だと思う。ブルースリーが作った宇宙だとか何だとか、偉い評論家の人も言ってた。
アジアにおいてのアクション映画とは、間違いなくカンフー映画であり、ブルースリーであり、ジャッキーであり、ジェットリーなのだ。私もそう思って生きてきた一人なわけで。
子供の頃から延々とジャッキー映画を見て、ユンピョウやサモハンに親しんで憧れて、ジェットリーを見たときに感動した。アクション神がブルースリーなら、この世に生まれた最高傑作はエンタメアクションならばジャッキー、カンフーの美ならジェットリーだと確信した記憶がある。小学生だったけど。
カンフー映画のセオリーや美は、彼らによって確立されて、我々に浸透したんだと思う。絶対。
それは見せ方の演出から殺陣のリズムに至るまでありとあらゆるものが含まれていた。もう本当に他は手出し出来ないレベルで。
ちょっと話が回りくどくなってきて申し訳ない。けれど私が受けた衝撃を語るにはどうしても必要な部分だったので。
そんなカンフー映画万歳の私に、こうプレゼンする人が現れたわけです。
タイにヤバい奴がいる。とんでもないアクション映画がある。
何を言われているのだろうと思ったのは言うまでもない。私、タイ映画見たこと無かったし。インド映画と混同して、踊るのかな?と思っている始末だった。でもまぁ兎に角ヤバいからと言うことで見ることになったのだけど。で、見た結果が先述の通り。
文字通り、殴り込み状態
一体、私の脳内で何が起こったのか。言葉にするとストレートに、鈍器で殴られた衝撃だった。ジャッキーとジェットリーが最高傑作で、それ以上など到底有り得ないとか考えていた私は自らの世界の狭さに打ちのめされた。
その二人以外が存在していた。全く違うフィールドでその二人を凌ぐ最高ぶりだった。
もう何よりそもそも、カンフー使ってなかった。古式ムエタイって何?普通のムエタイと違うの?
しかもカンフー映画じゃないだけで混乱しているのに、ラストは仏像の首が落ちてきて悪者が死ぬとかオチが斬新すぎてそこまで仏教に敬虔じゃない身としてはポカンとするしかない。けれど何だか凄い高揚感だ。嫌いじゃない、むしろ大好き。
カンフー映画こそアジアアクション映画のセオリーと考えていた私に殴り込みの勢いでカルチャーショックが訪れる。いや、この衝撃を世間の人も味わったに違いない、きっと。
比較考察 カンフー映画との違い
マッハ!が成功した秘訣がこの衝撃だとして。それを生み出したものとは何だろうか。単にムエタイとカンフーという武術の違いだろうか。いやいやそんな事は無い。勿論そうとも言い表せるけれど、もう少し深く丁寧にその辺りを見ていくと、色々発見がある。
やはりこれはセオリー崩しなのだ。
例えムエタイを使おうと、トニーの身体能力が異常だろうと、マムのネタが冴え渡ろうと、これまでのセオリー通りに映画を撮ればこんな事にはならなかった。勿論、仏像の首のせいでもない。当たり前だけれど。
大事なのは意図的にカンフー映画のセオリーが崩されているところにある。実際、韓国ではテコンドーを使うアクション映画があるけれど、それを見てもマッハ!ほどの衝撃が無い。それはテコンドーを使いながらも、カンフー映画で作られたセオリーに乗っ取って映画が撮られているからだと思う。では、マッハ!における、カンフー映画のセオリーを崩した点とはどこか。
一つ目は勿論、タイと言う国への強い愛国心だと思う。正直、アジアのアクション映画を見ていると設定がどこの国なのかよく解らないものも多い。あまりその辺が必要ないからなのだと思う。けれどマッハ!に関しては明らかにタイだ。設定的にもタイしか有り得ない。
キャラクターの思想もそれにマッチするように作られている。いや、まぁ、皆さんタイ人なのだから自然とそうなるのだろうけど。
二つ目は殺陣のリズム。カンフー映画の殺陣には独特のリズムがある。大体、何手で大きな技が来るということも含めて音楽の様に流れがある。それにBGMが合わさると、とても綺麗なのだ。ジャッキー達は京劇の師匠の元で修業していたというのは有名な話だし、その辺りの流れを汲んでいるのかもしれない。
ところがマッハ!はこの流れをほぼ完全に無視している。楽譜で言えば変なところに音符や休符がある感じでスッキリ納まらない。制作者サイドの思惑はそれがリアリティに繋がるからという事だったらしい。
大当たりとしか言えない。思わぬ所で出される攻撃に、私は一々ドキドキしなければならなかった。完全に思う壺だ・・・。
そして三つ目。これが私の心に響いた最も大きな原因だと思う要素。それは暴力的なリアリティだ。二つ目に書いたリズム崩しもリアリティ追求の一つだが、私がここで言っているのはそんな生易しいものではない。マッハ!を見たときに思ったのだ、ほんまに蹴ってるやん・・・と。事実、蹴っているし殴っている。跳ぶし回るし飛び降りる。基本的に寸止めはない。これは恐ろしい事だ。
映画は虚構なのだから、当然、嘘がある。殺陣とは殴るのではなく、殴っているように見せるものだ。ジャッキーだって危ない事をしまくっているが、相手を殴る演技の時はちゃんと演技の動きをしている。
しかしトニーの動きは違う。勿論、彼だって俳優だから演技なのだけれど。彼の演技は一緒に数年練習してきた仲間でなければ、本気で殴られたのと同等の怪我をする演技なのだ。明らかに強く行きすぎである。頭を狙う回転蹴りとか、本当なら真ん中など狙うべきではない。防具をつけていれば大体は大丈夫と勘違いしているとしか思えない。これは勿論、褒め言葉だけど。
そしてそのトニーこそが、一番危ない目にあっている。何故、主演俳優があんな危ないシーンをやるのか。
車の下に潜るのだって、動く車の動きを撮ってから、止まっている車の下を潜り、それをあわせて編集すればいいのに。どうして本当に動く車の下に潜る。どうして安全なアクション用の木材を使わずに堅めの木を使う。どうして本当に脚を燃やす。失礼を覚悟で最大の敬意と愛を込めて言おう。
あんた達、全員、アホでしょう。
しかしながら。その行き過ぎとも言えるリアリティ追求は、あらゆる場面で効いている。徹底されたそれはガッツリとお客の私に届いていた。
他の人が制限をかけるリミットを超えて、彼らはその先へと飛び出していた。その為にとんでもない長期間練習する事になっても、痛い目を見ても、だからやめようとは誰も言わなかったらしい。涙が出そうである。最高すぎて。
セオリー崩しが生み出した主役像
そんな諸々の無茶は主人公ティンのキャラクターをある一つの方向へと導いた。
ティンはずっと厳しい顔をしている役で、これは俳優のトニーの演技力に問題があるとの声もあるが、私はアリだと思っている。
あの顔のまま、リズムを無視して二手目には相手の関節を潰しにいく、或いはフィニッシュの回転蹴りや肘膝を遠慮なく出してくる姿。相手が起き上がる想定を全くしない一撃を平気で出す、アクション映画の主人公としてはどうなのよ?と言うそれ。
私の目には、それはもう言い訳を許さない鬼神そのものにしか映らない。
仏を蔑ろにしたものにセオリー通りの美しい戦闘など待ってはいない。そこにいるのは仏罰を与える圧倒的な存在だ。
もう殆ど人間じゃない。だけど、案外それがしっくりくる。最後の最後に仏の首がトドメをさすのもこれで納得だ。
全体的に無茶をしている様に見えてそれがギリギリのバランスを保っている。意味解らんかった、とならない絶妙のライン。アクションのヤバさをこれほど押し出しておきながら破綻しない奇跡。それがあったればこそ、素直にアクションの凄さに度肝を抜かれ、高揚して、爽快感を楽しめる。だから私は大した説明を出来なくても、今日も何の心配も無く口に出す。
マッハ!のアクションはヤバい。
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