選べない人の本当の不幸 - 化粧師 KEWAISHIの感想

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化粧師 KEWAISHI

4.504.50
映像
4.50
脚本
5.00
キャスト
5.00
音楽
5.00
演出
4.50
感想数
1
観た人
2

選べない人の本当の不幸

4.54.5
映像
4.5
脚本
5.0
キャスト
5.0
音楽
5.0
演出
4.5

目次

高校生のころに出あった映画

本格的に映画を見だしたのは、高校生の頃からだった。登下校に通る中心街と駅に映画館があったので、帰る途中、制服姿のままで、観にいっていた。とはいっても、田舎だったのと、今ほど邦画が盛んに作られていないころで、観ていたのは、ほとんどが洋画だ。自分としても、とくに邦画に興味はなかったし、そんな環境と心境にあった中で、この作品を観たのは自分でも意外だったし、今となっては、邦画のよさを知れたので、出あえてよかったと思っている。作品自体もそうだが、観にいった状況も、印象的だった。高校の野外学習が、悪天候で途中で中止になった日。いつもなら、高校が終わってから映画を観にいくのが、その日は二三時間早く、平日の日中という、ふだんは、学校外にいることのない時間帯に、映画館にいることが、さぼっているわけではないが、さぼっているような、特別な気分になれた。作品が人気がなかったのか、そんな時間帯だったからか、観客は自分と、年配の女性三人組で、大スクリーンを少人数で独占できて、気分もよかったのだろう。
映画の内容も、もう、十年以上も前の作品と思えないほど、映像がきれいで、洗練されていた。大正時代を扱ったという点では、今でも異色だ。主役をはじめ俳優陣が自分好みだったせいもあるが、ここ、十数年邦画を観てきた中で、この作品を越えるものがないと思うのは、やはり、物語が丁寧に作りこまれているからだと思う。とくに、反権力、反体制的な流れになりそうなのを、それぞれの人間の立場に立って、その生き様を淡々と描いているところが好ましい。

欠けているからこそ埋めようとする力

主役の小三馬は、幼いころ、工場の汚水によって、耳が聞こえなくなってしまう。今の時代なら訴訟もので、マスコミも騒ぎ立てるだろうが、この時代は泣き寝入りをするしかなかった。耳が聞こえなくなった上、母まで亡くした幼子の小三馬は絶望的な状態になるのだが、母に死に化粧してくれた化粧師に、一人でついていく。亡くなった母をきれいにしてもらったのを見て、母親の代わりに不憫な女性をきれいにしてあげたいとの、思いが芽生えたのかもしれない。一方で、化粧師の仕事ぶりに、自分の活路を見いだしたのではないかと思う。耳が聞こえないのであっては、人間関係に重きを置く村社会でやっていくのは、難しい。対して、化粧師は単独で仕事をする。それに、特殊な技術を使うので、人に指示されたり、人と相談したりといった、やりとりを、あまりしないで、ほとんどが自分の手に任されるので、耳が聞こえなくても、支障はなさそうだ。

実際に、小三馬は大人になって、化粧師として順調に仕事をしているし、周りの人、作品上の人物も観客も、耳が聞こえないことに気がつかない。むしろ、耳が聞こえないほうがいいことも、あるように思える。色々な家に出入りするので、そこで色々な噂や陰口悪口といったものが、自然に耳に入ってしまう。そうすると誰かに話したくなるものだが、あの化粧師は口が軽いと噂がたったら、仕事の依頼がこなくなる。小三馬はそんな心配はないし、自身の悪評を聞かないでも済むのだ。そして、なにより、仕事に真摯に打ちこめる。お客と会話をして、相手の機嫌をとったり、気分をよくさせたりできない以上、化粧の技術だけで、納得し満足させなければならない。耳が聞こえないからこそ、技術を高めることができ、手を抜かないで、仕事ができるわけだ。

恵まれていることが恨めしく思う皮肉

もし、小三馬が今の時代に生まれてきたら、どうだっただろう。訴訟して勝ち、工場や国から賠償金をもらって、障害者というので周りから手厚い保護を受けながら、なに不自由なく暮らしていたかもしれない。耳を聞こえなくした悪者は責任をとるべきだし、被害者である子供は一生、報われるべきだと思うのは、当たり前のようとはいえ、作品の小三馬を見ていると、考えさせられるものがある。人はどんなに幼くても、生きようとする底力があるのではないかと。まだまだ母の胸が恋しいような、幼い小三馬は、耳が聞こえなくなり、母を失って、でも、それで人生が終わりだとは思わなかった。ハンディキャップを抱え、頼れる大人のいない孤独な身になったのを踏まえて、必死にこの先、どうやったら生きていけるのかを考え、その術を身につけようとした。お金をもらい、保護されたなら、そうは考えなかったし、自分を奮い立たせることもなかっただろう。言い方をかえると、お金と保護が、人の生きようとする底力を殺しているともいえる。

お金と保護を当たり前のように享受していると、それを失くしては、生きていけない、人生が終わりだとの恐怖や不安に縛られるのではいかと思う。それがなくても、どうにかできる力が自分にあるのに、気づかないで。そのことを象徴しているのが、天麩羅屋の娘、純江と、女中の時子だ。両親が健在で、不自由なく暮らしている純江は、小三馬の弟子になると口では言いつつ、両親の望む結婚をしようとする。身内がなく、家族代わりといえる人々も、苦労して生活し、その援助をしている時子は、女中を辞めてでも、女優になろうとする。立場としては、純江のほうが、援助する人がいなく、失敗しても帰れる場所があるという点で、無謀なことができそうに思える。が、親に勘当される可能性もあり、そうなった場合、お金と保護のない生活に耐えられるか自信がない。一方で、時子は、それまで、家族を亡くしても、住んでいるところが焼け野原になっても、生きてこられたことを根拠に、女中を辞めてお金がなくなっても、女優で失敗しても、なんとかなるだろうと、考えられるのだと思う。こう考えると、どちらが幸せで不幸せなのか、分からなくなってくる。どちらにしろ、どういう家に生まれ、その後どんな境遇になるのかは、自分で決められることではないので、純江が親との決別を覚悟で、小三馬のもとに飛びこめなかったことを、臆病だとか甘いだとかは、一概に責められないだろう。ただ、純江は、耳の聞こえない小三馬を、不憫な境遇の時子を羨ましく、そして自分の恵まれた身の上を恨めしく思うのかもしれない。

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