どの登場人物が怖い?心理テストができそうな実話 - 凶悪の感想

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凶悪

4.504.50
映像
4.00
脚本
4.50
キャスト
5.00
音楽
4.00
演出
4.50
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どの登場人物が怖い?心理テストができそうな実話

4.54.5
映像
4.0
脚本
4.5
キャスト
5.0
音楽
4.0
演出
4.5

目次

閲覧注意…

山田孝之とリリー・フランキーの共演ということで手にしてみたが、原作のサスペンス小説「凶悪~ある死刑囚の告発~」も読んでみたくなるような興味深い内容だった。邦画はいつもあまり期待せずに観ることにしているのだけれど、この映画は個人的な満足度としてはここ数年観た映画の中でも上位にランキングされる。今年観た“誰かに教えたい映画”ナンバーワンだ。

ストーリー自体は実際に起きた凶悪殺人事件が元になっているというだけあって、ややグロテスクな描写や過激なバイオレンス・シーンも多いが、各場面に散りばめられた実話ならではの雑味も程よく、現実味が増してサスペンス感たっぷりだ。さも実際にありそうな陳腐なエピソードや、ヒリヒリするような暴力団同士のいさかいが、却ってこの事件独特の暗さと重さを際立たせる。

この映画の面白さは、純粋な正義感に駆られた一雑誌記者が殺人事件の真相を暴き、首謀者を告発するというサスペンスとしての要素を軸に、近代犯罪史上稀に見る凶悪犯罪そのものの描写、そして何よりストーリー全体に一貫して見え隠れする、“凶悪”の正体が暴かれるところだ。

それを最後の場面で示唆する「先生」は、リリー・フランキー演じる不動産ブローカー。こんな人って実際いるはずだと思わせるような、リアルな演技にグッとくる。演技なんかじゃない筈だ、とさえ感じる“自然な狂気”だ。どうでも良い話だが、気が付けば映画を観ている間中ずっと知り合いの医師の姿がダブってしまっていた。

暴力シーンがそれほど得意ではない多くの人がこのドラマの最後まで辿り着けないとしたら、少しもったいないことだと思う。私自身もリリー・フランキーと山田孝之が主演でなければ、おそらく途中で挫折していたに違いない。しかし山田&フランキーコンビの織りなす世界観に興味をひかれてストーリーを追ううち、途中から自分でも意外な心境になってきた。こういうのが映画鑑賞の醍醐味のひとつだ。

まず物事をありのままに捉える事からだ。

物語の起承転結を楽しんだり、イケメン俳優の挙動にウットリできる映画も楽しいが、良い映画に出会うと今まで食わず嫌いだったジャンルの映画も読書もどんどんチャレンジしたいと思わせてくれる。この映画で強く感じたのは、殺人というものをよりシンプルに、ありのままに認識することができたという実感だ。

誤解をおそれず表現すれば、殺人とは人間にとって本来とても自然な営みなのだ。人は不都合が生じるとスグに自分以外の存在を抹消することで解決しようと試みる。これは潜在的に自分自身を深く憎んでいるという人間の本質ゆえの心理だと本で読んだことがあるが、殺人はその一手段であるに過ぎない。

たとえば自分の手で生き埋めにしたり、ぶった切って焼却炉で燃やしたり、保険金目当てに拷問死させた被害者たちの記憶すら正確に脳裏にとどめない元暴力団組長・須藤という人物は、人に騙されて腹心の舎弟を殺してしまうような人格の持ち主だ。アルムの山で薪割をするおじいさんのように、自分なりの必要に迫られれば何の罪悪感もなく黙々と殺人をこなす。

飛び散る血のりや人骨に怯えることもなく、死人の遺品をネコババする。本人たちは厄介者の始末をする人助けのようなつもりなのだ。気持ち良いくらい豪快に人を殺める姿には頼もしさすら感じる。というかそれが暴力団の存在理由なのだろうけど。

なぜ人を殺してはいけないのか?

人間が殺人を悪と決めて裁くのは、自分や自分の大切な家族が殺されないためだ。須藤が人間らしい感情を持ち合わせていないのかといえば人一倍情に篤く、少年のように純真な一面をのぞかせたり、「先生」の無邪気な凶悪ぶりに眉をひそめる場面も印象的に描かれている。現代社会では“お前は頭が悪いんだから”といわれるようなタイプの男だが、時代が違えばきっと恐れ知らずの勇敢な英雄なのだろう。豪快な演技が魅力のピエール瀧はハマり役だった。

藤井のような人格をひとつの個性と見做せば、世の中から犯罪がなくならないのも当然のことのように思えてくる。人間の醜さを素直にさらけ出す殺人者は、ある意味で正直者といえる。考えてみれば、「殺すなかれ」が当たり前の観念として認識されるようになったのはここ最近のことだろう。日本でも近代まで家督相続争いで兄弟同志や親子が殺し合っていた。

この映画の登場人物を常識的な基準で善悪に分けるなら、というか無意識に常識で分けているのが普通だと思うのだが、まず山田孝之演じる主人公の藤井修一が善とすれば、彼の仕事に理解を示さない妻は悪だ。妻に心労をかける痴呆の義母に罪はないが、そんなお荷物を妻に押し付ける藤井は悪で、妻は被害者だ。殺人犯人は当然のように悪だ。被害者は“何の罪もない”と言うくらいだから善なのだろう。

この映画にはいろいろなタイプの凶悪犯が登場する。中でも多額の借金を抱え生活苦に喘ぐ一家が老人をカネヅルにして「先生」に殺しを依頼する場面は私にとって最も受け入れ難いケースで、家族の陰鬱な表情が複雑な感情を刺激した。最後の拠り所である家族までもが、極限状態では自分を排斥しようとするとなれば、私は真に孤独だ。しかし、かつて食糧難の時代に口減らしとしてわが子を売りとばしたり、老人を山に捨てたり、飢饉が来れば人肉を喰らったとされる昔の人たちと、現代人との精神にどれほどの違いがあるだろうか。

誰が一番「怖い人」なのか。

真犯人が徐々に明らかになる中、この物語の中で表現されるべき真の闇が見え始める。同時に藤井の家庭内に不穏な空気が立ち込めるようになる。始めは須藤に恫喝されて怯えていた藤井が次第に事件にのめり込み、表情には狂気が滲みはじめる。正義の仮面から、今にも狂気がはみ出しそうになっている。

須藤が獄中で改心し、俳句を詠むようになると、彼をこの仕事へと駆り立てる情熱の動機が明らかになる。正義にとって、凶悪は凶悪のまま自責の念に縛られていてもらわなくては困るのだ。神は罪を許しても、正義は決して許さない。それを初めに指摘したのは妻だった。

ハリウッド映画でも、世界平和のために正念場を戦っている主人公の行く手を阻むのがラスボスではなく町の呑気な保安官だったりするが、多くの人は疲れて仕事から帰った藤井に対し家庭内の小さな問題解決を迫って詰め寄る面倒臭い妻を疎ましく思ったのではないだろうか。しかし意外にも、妻はストーリーを核心部分へと導くキーパーソンだった。現場で追い詰められ、心の闇を覗いてしまった人の象徴といえる。

藤井は家庭にあっては不都合から目を背ける傍観者であり、仕事においては正義の皮を被った凶悪な常識人だった。自分をきれいな所に置いて暴力を裁くのは簡単なことだが、自分自身の中にも同じ凶悪が眠っていることを認め、受け入れるのは難しい。記者も怖いが、“みんな本当は凶悪なんだ”といわんばかりに罪を独白する妻の姿はもっと怖い。池脇千鶴の地味な演技と、老人介護という自分自身の問題がダブってさらに怖い。

みんな凶悪、という結論

「本当は凶悪犯罪が楽しいんでしょう?」と、図星を突く妻。非日常的な何かを求めてニュースをチェックしている自分の深層心理を見抜かれたような気まずさを覚える。“人の不幸は蜜の味”というやつだ。あるいは“自分は気づいているけど他の人はどうだろう”という変な特別意識だろうか。私たちはいつも血に飢えた内面の狂気を満たそうと、弱者を探している。

他者を排斥したいと願う感情が人間の本性なればこそ、自身の本性とそんな自分を責める罪悪感との戦いは安らぎの場であるべき家庭内にも当然存在しているのかもしれない。老人介護の問題は現実の問題として我々の生活に迫っている。私たちが自分の本姓と闘うことを止めない限り、どこにも悪者が存在しない“不幸な事件”は、増え続けるのかもしれない。

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