今の教育現場が抱える課題
私は学校のカイダンに秘められたメッセージを改めて聞く必要があると思う。
昨年放送され話題を博したドラマ、学校のカイダンその見どころはなんと言っても最後の演説シーンだろう。しかし、その見どころをただの見どころとして見て、それによって彼女が学校のカイダンを駆け上がっていくのをただ痛快だなと思って聞いているだけでは、もったいないと思い今回このレビューを書いた。
新しいエレベーター教育
今の学校の体質 このドラマは、今、私たちが抱えている「新しいエレベーター教育」の問題に一石を投じているような気がしてならないのである。「エレベーター教育」という言葉自体は、もちろん昔からある言葉だし、昔から言われてきたことだ。今は、そんな言葉より、「ゆとり世代」や、「さとり世代」のような言葉の方が一般的かもしれないが、それでも私は、「新しいエレベーター教育」は、確実に存在すると思うのだ。 今回のドラマで言えばプラチナ枠の子たちが、それにあたるだろう。それに代表される事案が近年再び増加している未成年者の自殺問題、特に中高生の自殺問題だろう。ちなみに私は、中高生の自傷行為についても、この「新しいエレベーター教育問題」が深く関わっていると睨んでいる。例えば、厳しい受験競争を乗り越えて、志望の高校への入学が許されたとする。この状況を、とあるエレベーターの前に並べられた状態にある。と、仮定する。ちなみに、この考え方は、今後私のレビューを読み進めていく上では、とても大事な考え方である。が、もちろん来年度の高校入試には、絶対にでない。仮定した場合、厳しい競争を勝ち上がってきた彼らの前に見えているのは、おそらく、スカイツリーの第二展望台へと続くエレベーターだろう。それほどまでに、彼らは夢と希望とスカイツリーよりも遥かに高い志を持ってこのエレベーターの前にやってくるのだ。しかし、みんなが憧れるスカイツリーのエレベーターにも定員というものは存在する。どんなに、「私は、足が悪いのです。」、「私、高校生なのですが、できちゃったみたいでー。」なんてアピールしても、乗り遅れて、定員オーバーになってしまったら、次が来るまで待っていなければならない。普通のエレベーターなら、待ってみるのもいいかもしれないが、ここは、学校というあまりにも果てしない場所にあり、青春という時間を三年というあまりにも速いスピードで上下する、各階止まり大人行きのエレベーターなのである。そんなエレベーターに見事乗り込み、初めて見る景色に「わー」「きゃー」いいながらも、自分が一番美しいと思える景色を見つけられた子はいいが、大変なのは、なんとかエレベーターに乗ることはできたものの、その時点で息が切れ、眼下に広がる息を飲むような景色を堪能する余力のない者、また自分を前に出すことができず、景色を堪能する前に、自分が景色の一部に溶け込んでしまったり、溶け込むどころか、その存在にすら気づいてもらえず、景色の中を流れる空気のようになってしまったり・・・・・そういうような人たちにとってそこは「きれいな景色が見られる場所」ではなく、「高く、空気の薄い、息苦しさだけを感じる密室」になってしまうのだ。先に書いたように自分に誰かが振り向いてくれるのをじっと待つことも、ましてや、せっかくここまであがってきたのに降りることなどもっとできない。 そんな彼らが次にとる行動は・・・・・「・・・・降りられないなら落ちちゃおう。」である。 このようなプロセスを踏み「自殺」は繰り返されていると私は思っている。 つまり、私は、このようなエレベーターという密室に閉じ込められてしまった生徒を結果として自殺にまで追い込んでしまう今の教育体質を「新しいエレベーター教育」と呼んだのである。 自傷行為についても同じでその場合には、「もう逃げてしまいたい」の他に息苦しい日々の暮らしの中で、自分がいまここに生きている、ということを「痛み」によって実感したいという感情も隠れているような気がしてならない。だからこそ今の日本には、「新しいエレベーター教育からの脱却」が必要なのではないだろうか? それでもし、いざ死体が出てきて、学校でその子の幽霊が出て、「はい、学校の怪談になりましたー!」なんてしゃれにならないのだから。
学校のカイダンの必要性
学校にはもう1つの階段が必要だ。 エレベーターに乗り遅れるという話をしたが、その原因は様々だ。例えば、都内のとある高校に通う春菜ツバメさん(仮)の場合。彼女もまたエレベーターに乗れなかった他大勢と同じように悩んでいた。彼女の場合、エレベーターに乗り遅れてしまった原因は言うまでもなくプラチナ枠からの執拗なイジメに遭ったからだろう。しかし、彼女には一つ、他大勢とは異なる所があった。それは、どんなに、理不尽なイジメに遭おうとも決して逃げなかったことだ。彼女は、スカイツリーのエレベーターに乗り遅れてしまったのだと、気づいた時、東京タワーのエレベーターを目指したのではなく、大阪にあるアベノハルカスのエレベーターに乗るために旅行に行くということもしなかった。そんな所には、目もくれず、一目散にスカイツリーに設置されている非常階段を目指したのだ。彼女は、エレベーターに乗り遅れて、リタイヤしようとしている仲間たちに、非常階段なら、「乗り遅れることもなく、一段一段自分のペースで上がって来られるよ。」「もし落ちそうになっても、周りにいる人達が絶対受け止めてくれるよ。」「立ち止まれるし、降りることだってできる。」と諭したのだ。私はこれが、「新しいエレベーター教育問題」に対する唯一の答えであり、未来のある子ども達を救う唯一の方法なのではないか?と思うのだ。確かに、非常階段は暗く、冷たい、しかし、だからこそ、暗く、冷たい階段だからこそ、みんなで手を取り合って、上がれる。「疲れたね」って言い合うことができる。そして、その先頭を歩くのは先生でなければいけない、先生は暗く、冷たい階段を共に歩く伴走者でなければならない。「生徒とどう走ればいいか分からない。」だからまずは聴いて欲しい、見てほしい、もう一度。私たちが先生と、仲間たちとどんな風に大人の階段を上りたいと思っているのか、私たちがどんなことで苦しんでいるのか、エレベーターに乗れなかった原因は何なのか、世の中の先生たちは今、恐れている。「また自殺者が出てしまうのではないか。」「怒ったら体罰で保護者に白い眼で見られるのではないか。」と、そして、後悔している。「また自殺者が出てしまった。」「学校に過失はなかったはずなのに。」と。でも、あの言葉は今の大人たちに向けたものだったと私は思う。「なかったことにはできない。」でも「上がれない階段もなければ、降りられない階段もない。」それから、たまには「さあみんなでばかになろう」。そして、気づいて欲しい、あのコトバは、ツバメだけの言葉じゃない、今、この世で苦しんでいるすべての子ども達の魂のコトバだということを。気づけたならコエを出すのだ。私たちは生きている、私たちは今も声なき声を出し続けている。この魂のコトバが一人でも多くの人に届いた時、ひとつでも、少しでも痛ましい事故が減っていることを心より願う。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)