小林秀雄の不思議な力を体感せよ - 小林秀雄の哲学の感想

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小林秀雄の哲学

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小林秀雄の不思議な力を体感せよ

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目次

小林秀雄の入門としては最適な一冊。

本書は、小林秀雄の生涯を追いながら、彼の文章に潜む魅力と危うさを追いかけている本である。新書なのでさくっと読みやすい。  

小林秀雄は、一般に「日本の近代文芸批評の確立者」として見なされている。国語の教科書で彼の文章を読んだという人も多いのではないだろうか。

小林は、対象の作品をただ解読して説明するのではなく、その作品から自立した「独立物」としての文芸批評を作り上げた。

筆者の高橋昌一郎は、新聞に載った小林の写真を見て「その人物は誰か」と尋ねてきたアメリカ人に、「リテラリー・クリティック(=文芸評論家)」「コメンテーター(=批評家)」ではなく「フィロソファー(=哲学者)」と答えたという。

本書は、小林の誕生から逝去まで、その一生を丹念に振り返りながら、彼の論理に接近している。

小林自身の文章はもちろん、彼の妹や、周辺人物の文章がふんだんに引用されており、小林秀雄という人物に、外側からも内側からも近づくことができる。

特に、大学時代のエピソードは印象的である。

「辰野隆先生の講義が終ろうとするころ、入口のドアを蹴って闖入してくる黒背広の男があった。「おい、辰野、金貸せ!」すると、親分肌の辰野先生は、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」といいながら、財布をとり出し、十円貸してやっていた。この男はだまって去ったが、それが小林君だった」(今日出海『わが友の生涯』)

小林は当時大変苦しい生活をしており、尊敬する辰野先生に金を借りるしか生きる道がなかった。今日出海は、彼に悪意は全くなく、辰野先生は小林を深く理解し可愛がっていたと書いている。

現代の感覚で読むと、小林はヤクザだったのかと思われるかもしれないが、当時の自由な大学の雰囲気が感じられてあたたかな気持になる。

小林はその辰野先生の家に出入りし、書庫の本を自由自在に借りていた。

「私には本を読む時に、無暗と煙草をすって頭の毛をむしる奇妙に執拗な悪癖がある。従って読む本には、一頁毎に髪の毛と煙草の灰がはさまって行くわけになる。貸す奴はいい災難だが、私の方でもこういう明瞭な証拠があるから、読まぬ本を読んだと言って返せない不便がある。辰野先生は私から本を受け取ると、窓の処でパラパラとやって掃除する。偶々汚れていないと、読まなかったな、と言う、それは家でよく払って来た奴ですなどと弁解しても、一向信用してもらえない、そうなるとこっちも馬鹿々々しいから、勇敢に汚してお返しする事にしていた」(小林秀雄『ヴァレリイの事』)

末尾の「勇敢に汚してお返しする事にしていた」の「勇敢に」という言葉選びに、小林独特のセンスが感じられておもしろい。

このように、小林自身の述懐と、周囲の人間の証言とがおりまぜられ、小林秀雄という一人の人物が、読者の前に立体的に浮かび上がってくる仕掛けになっている。

「テメエは大馬鹿ヤロウだ」

本書は、68歳の小林の『文学の雑感』という講演の中で、「歴史を見る態度」を問われて答えた内容の抜粋から始まっている。

歴史家というのはね、過去を研究するものではないってことです。過去をうまく甦えらせる人を、本当の歴史家というんです。(中略)歴史が今誤解されているのは、自然と歴史を 混同してる考えが、無意識のうちに、僕らをまどわしていますからね、過去は、僕らの外に、昔、あったんだって、どうしても考えるんですよ。(中略)そうでしょう、考古学者なんかはそうでしょうが。そこら辺を、やたら掘り返してるでしょうが。ああ、ここに藤原の宮があったんだと、その証拠がみたいんです。掘ってみるんです。確かに跡はあった。で、論文を書くんです、そうすると博士になれるんだ。

いいかな、で、その人は歴史を知ってるかっていうと、そうじゃない、知らないんです。あったんだという知識を書いただけです。(中略)そういうふうに歴史ってものは、どこを切ったっていいんです。古いも新しいもありゃしないんです。みんな、君です、君の知識です。そしてそれを生き返らせるのは君の自力です、君の能力です。人に聞かしてもらうことはできない。だから歴史は常に主観的です。主観的でなければ客観的にならんのです。(小林秀雄『文学の雑感―質疑応答』)

この文章の持つ、得体のしれない力は何だろう。

学校で習う「歴史」は、いわば暗記の作業である。多くの人は、「いい国作ろう鎌倉幕府、1192年!」と、歴史の重要な出来事と年号を必死で覚えてきたか、あるいはそのあまりのつまらなさに、覚えることを放棄してきたかもしれない。

しかし小林は、そのような単調さをひとっとびに飛び越えて、歴史を「みんな、君です、君の知識です。」と言い切る。

これまで歴史を自分の外にある無関係なものとして捉え、当たり前のように「覚えて」きた読者は、この断言に度肝を抜かれることになる。

断言されても、その真意は、読者にはまだよくわからない。だが、まだよくはわからないながらも、文章の得体のしれない力によって、どこか納得してしまう。自らの心の奥底が、小林の言葉に深く共鳴するのだ。

そしてその共鳴は、不思議に強い励ましを受けたような感触、なぜか浮き浮きとした高揚感につながっていく。

薬物中毒と神経衰弱のため入院していた坂口安吾を見舞った小林は、数十回も「テメエは大馬鹿ヤロウだ」と言ったという。  坂口は終始嬉しそうにニコニコしていたそうだ。

この「テメエは大馬鹿ヤロウだ」は、小林一流の励ましの文句である。

小林の言葉には、相手に元気や勇気を与える、不可思議な力が宿っている。

小林秀雄は危険か?

さて高橋は、小林の魅力について語ると同時に、その「危険性」を分析することを本書の趣旨としている。

その「危険性」とは以下のようなものである。

以上見てきたように、小林の作品は、読者を深く魅了する論理構造になっている。

読者はそれを読む中で、意識的に思索するというよりはむしろ、意識や分析を忘却し、無心で小林の論理に飛び込むことになる。

たとえば1947年の作品『モオツァルト』で、彼の作品として小林が取り上げたのは、短調系列の弦楽奏や交響曲に偏っており、モーツァルトがまったく別の姿を見せる長調のピアノ協奏曲やオペラについてはほとんど言及がない。

つまり小林が書いたのは「彼のモーツァルト」であり、それはきわめて一面的なものにすぎないのである。 読者はその完成された、一面的な天才像を前にして、茫然と見物することしかできない。

小林の文章に出会った人は、その圧倒的な力の前に、自ら感じ考えるという主体性を失ってしまう、ということだ。

これが高橋の言う小林の「危険性」である。

しかし、この「危険性」は、小林の文章の持つ力を、うがった角度から言い換えただけではないだろうか。

本書はその性質上、小林の文章と高橋の文章が交互に現れる形となるが、並べられると、小林の文章の持つ圧倒的な力が際立ち、高橋がやや可哀想になるくらいである。

いくら高橋が「危険性」を主張しても、それはただの難癖にしか見えず、小林の文章の圧倒的存在感の前に、その難癖はひどく些末なものと感じられる。

読者に思索の隙を与えない小林の文章は確かに危険かもしれないが、 それは、「優れたファンタジー小説は子供が夢中になりすぎてしまうから危険だ」と言っているのとさほど変わらないように思われる。  

力のある文章とは、必然的に「危険性」を伴うものだ。

あるいは高橋は小林の文章の「危険性」を主張することで、その魅力を逆説的なやり方で表現しようとしたのかもしれない。

だとすれば尚更、まだ小林秀雄について詳しく知らない読者に向けた入門として、本書は良書だと言うことができる。

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