クロスボーン・ガンダムが書きたかったもの - 機動戦士クロスボーン・ガンダムの感想

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機動戦士クロスボーン・ガンダム

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画力
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ストーリー
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キャラクター
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設定
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演出
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クロスボーン・ガンダムが書きたかったもの

4.54.5
画力
3.0
ストーリー
5.0
キャラクター
4.5
設定
4.5
演出
4.0

目次

クロスボーン・ガンダムはUCガンダムとしては異端な作品

ガンダムシリーズの中で、クロスボーンシリーズはかなり異端な作品です。後にユニコーンが小説・アニメ化したことで唯一の存在ではなくなりましたが、非映像化作品でありながら富野由紀夫監督が脚本を手がけています。これはクロスボーンが初めから宇宙世紀における正史として描かれるのを前提としている事を意味しています。

UCガンダム作品は、逆襲のシャアからF91の時代までと、Vに至るまでの時期が描かれておらず、空白の期間が非常に多くなっています。時代の流れに合わせて作中で用いられる言葉の意味も変わっていっているのは御存知の通りで、例えばニュータイプはファーストから逆襲のシャアに至るまで明らかにエスパーや超能力者、新人類といった意味合いで使われていたのが、F91やVの時代ではもっと単純にMS操作に優れたパイロット、程度の意味合いで使われるようになっています。

富野監督自身に思うところがあるのでしょうけれども、こういった変遷はテレビシリーズを追っているだけでは理解するのが難しく、設定資料集や監督のインタビューなどを探さなければならなくなっています。

目的は時代と言葉双方の補完

自分の作ったものが独り歩きし、勝手に評価されるのを富野監督は嫌う傾向にあります。そこで、自らの意思でガンダム世界にしっかりとした楔を打ち込んでおきたかったのでしょう。クロスボーンの作中には、それを意識させる事柄が多くあります。

クロスボーン作品内において、ニュータイプという単語は明確に超能力者、新人類を指して用いられます。自称ニュータイプのウモンは主人公トビアを指して、パイロット適正としての意味合いではなくニュータイプと呼称していますし、後半に出てくるベラの妹シェリンドンなどは、かつてのジオニズムを彷彿とさせる強烈なニュータイプ至上主義者です。本作の敵組織である木星帝国に至っては、地球人と木星人を魚とトカゲほどにも違うと語っていることからも分る通り、自分たちこそがニュータイプであると強く意識しています。

では、本作はニュータイプを超能力者・新人類として描きたいのか? 答えはNOです。何故ならば、作者の代弁者たる主人公、トビア=アロナクスがその存在を真っ向から否定しているからです。ニュータイプ肯定者は、シェリンドンやギリといった極端な若者か、ウモンやカラス、ドゥガチといった極端な老齢のいずれかに偏っています。この両極化が偶然とは思えません。富野監督お得意の暗喩であるならば、昔からガンダム作品を見ている古参と、最近(といっても、クロスボーン出版当時の最近ですが)のガンダム作品から入った新規参入のファンのニュータイプ論、引いてはガンダム論をばっさり切って捨てているのでしょう。君たちが言っていることは正しくない、何故なら原作者の俺がこう語るのだから、と。

ガンダムの本質は人のエゴのぶつかり合い

作中、シェリンドンに囚われたトビアは脱走します。その際、優れたニュータイプこそが将来的に世界を統べることになる、というニュータイプ至上主義に対して平手打ちした後叫びます。

「おれは人間だ。人間でたくさんだ」

またトビアは、何としてでも地球を破壊しようと企むドゥガチに対し、その心の内を知った上で叫びます。

「あんたまだ人間だ。(中略)心が汚いだけの、ただの人間だ」

トビアもドゥガチも、シェリンドンからニュータイプとして認定された存在ですが、それをトビアは正面から否定しました。この場合のニュータイプという言葉が何を意味しているのかは、実はさほど重要なことではありません。重要なのは、ニュータイプであれ何であれ人間であること。そして人間同士の戦いこそが富野監督の描きたかったガンダムであること。この2点こそが大事なのです。

思えば、ZガンダムやZZガンダムといったアニメ作品では、ニュータイプがいかにも超能力者的・新人類的に描かれました。同じく宇宙世紀作品では、ポケットの中の戦争・MS08小隊といったニュータイプのいない、戦争を正面から描いた泥臭い作品もありました。そうして様々な作品が現れるたびに、ガンダムとは何であるか、ガンダムの本質はどこにあるか、といったテーマはガンダムファンを多いに賑わせました。

しかし、このテーマは地獄の釜の蓋を開けるようなものであり、議論とは名ばかりの自分の意見の押しつけであり、また富野監督の本意とは大きくハズレたものを、あたかも監督の考えであるかのように取り扱うものもありました。繰り返しになりますが、富野監督はこれを嫌ったのでしょう。そこで再び作品を通して自分のガンダム論を確かに形に残したかった。そのために用いたのがこのクロスボーン・ガンダムという作品であると思います。

その後のクロスボーン

ところで、ご存知かとは思いますがクロスボーン・ガンダムシリーズは後に富野監督の手を離れます。長谷川先生の独自解釈の元、スカルハート・鋼鉄の七人・ゴースト・ダストと繋がっていきます。しかし、手を離れたとは言え一度は作品を共に作り上げただけあり、長谷川先生の描くクロスボーンも確かに、ガンダムとしての本質が受け継がれています。まあ、時に暴走してとんでもなMSを出してしまうこともあるのですが(笑)

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