穢れの無い聖域を描いた作品
日常系サザエさん方式
『侵略!イカ娘』は2007年から2016年まで9年間、少年チャンピオン誌上で連載を続けていた漫画です。週間連載の漫画で9年と言うのは長期連載と言っても良いでしょう。内容はほのぼのしたいわゆる「日常系」と表現されるもので、キャラクター達は年齢を重ねません。連載期間は9年なのですが、作品内では時間経過は無く、これもいわゆる「サザエさん方式」という形式です。日常系でサザエさんな漫画は昔からたくさんありますが『侵略!イカ娘』には他に無い特徴が含まれています。
『侵略!イカ娘』の世界は性の臭いが全くしません。全てのキャラクターが健全でセクシーな描写が全く無いのです。それは主人公たるイカちゃんも同様で、座るときはきちんと下着…というか水着が見えないようにスカートを閉じています。普通、読者の支持を得ようとすればパンチラやボインちゃんを出していやーんエッチな展開を描くものですが、イカ娘の世界では頑なにそういった展開を否定しているのです。しかしこの性表現を徹底して封印するということはある種の効果をもたらしました。それは世俗から乖離した世界の構築という効果です。
聖域としての世界
連載当初の2007年はiPhoneが発売された年でもあります。それからAndroidの開発も進み急激にスマートフォンが普及するようにもなりました。かつてガラパゴス携帯が流行したときのように誰しもがスマートフォンの画面に釘付けとなっている光景を見ることができますが、昔と今では異なる要素があります。それはインターネットとの親和性です。ガラパゴス携帯とは比較にならないほどインターネットにおける通信性能が上昇し、人々は誰といつでも「繋がる」ことができるようになりました。
また、2008年にはスマートフォンと相性の良いSNSの代表格「Twitter」が日本でサービスを開始しています。今や人々は孤独ではなく、気軽にインターネット上で発言をしたり返信ができるようになりました。常に誰かと居て常に誰かと話ができるのです。そこに寂しさはありません。ですがこうした状況はむしろ窮屈なものです。常に誰かと居るということは気を遣わなければいけないということですし、自分の秘密を知られてしまう危険性も孕んでいます。孤独から解放されるために自分が絶対的に安心できる場所をもインターネットに差し出してしまったのかもしれません。インターネットがある限り、私達は寂しさを感じることはありませんが同時に安らぐことも無いのです。
『侵略!イカ娘』の世界は閉鎖された安全な世界と言えます。同じ登場人物が同じ街でストーリーを紡いでいくのです。そこには自我を揺るがす不安もありませんし、寂しさも感じません。性情報のような刺激の強いことを目にすることも無く、まるで少年少女時代のような雰囲気です。この街に居れば誰の干渉も受けず楽しい毎日を送ることができます。永遠とも思える夏の日差しを浴び、長い夏休みを過ごせるでしょう。私達にとって夏休みは幼い時代における最も安らげる期間の1つでした。誰しもが「ずっと夏休みならいいのに」と考えたものです。それを漫画で表現したものが『侵略!イカ娘』となります。誰にも侵害されない聖域で私達は子供になれるのです。
存在の不安からの解放
日本はかつて家制度がしっかりと守られていた社会でした。長男が家督を継ぎ一族を存続させていくことが定められた社会だったのです。そのため結婚はお見合いで、現在の恋愛感とは異なるものとなっていました。そこに欧米文化の流入や高度経済成長を経ることで家の概念は崩壊したのです。そしてベッドタウンができ、祖父母との縁の薄い子が生まれ、やがて核家族化していきました。そこに自分の存在を強化してくれる「一族」の概念はありません。
また、私達は緩やかな宗教観をもっています。普段の生活で一切神事的なことを行うことはありませんが、冠婚葬祭では宗教に則った形式を利用するものです。最早形骸化した宗教的行為なので、実質的に私達は信仰からかけ離れた存在と言えます。
私達には祖先が存在せず、信仰すべき神もいません。頼れるものと言えば父母、兄弟姉妹、友人といった存在ぐらいです。狭く現実的な存在しかいないので常に不安定な状態と言えるでしょう。永遠不変な祖先や完璧な神という、存在の保証をしてくれるようなものにいまさら頼ることは難しいものです。
存在の基盤が無い私達にとって安全地帯は貴重なものです。そして『侵略!イカ娘』はまさに安全地帯を描いた作品となります。存在の不安に脅かされる現実とは異なり、永遠不変の世界で健やかな物語がいつまでも紡がれていくのです。イカちゃんと登場人物の間には確固とした絆があり、イカちゃんのためなら誰でも尽力してくれます。いえ、それは登場人物の誰であっても同じ事かもしれません。『侵略!イカ娘』の世界は誰しもが存在を全肯定されていて、存在に対する不安をかき消してくれる力を持っています。漠然とした不安に囲まれている現代社会にとって相応しい作品と言えるでしょう。
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