映画の強みである映像だけが持つ、実感の具体性で捉えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件「ダラスの熱い日」 - ダラスの熱い日の感想

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ダラスの熱い日

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映像
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脚本
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キャスト
4.00
音楽
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演出
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映画の強みである映像だけが持つ、実感の具体性で捉えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件「ダラスの熱い日」

3.53.5
映像
3.5
脚本
3.5
キャスト
4.0
音楽
3.5
演出
3.5

映画「ダラスの日」は、生まれるべくして生まれた作品だと言えると思う。ジョン・F・ケネディ大統領が、1963年11月22日の午後に、テキサス州のダラスで、三発の銃弾を受けて死亡したその年の暮れ、新大統領ジョンソンは、最高裁長官ウォーレンに委員会を発足させ、事件の公式解明に当たらせたのだった。

翌1974年9月、この委員会は報告書を提出したが、それによると、ケネディを殺したのもオズワルド一人、オズワルドを殺したのもルビー一人、そこには何らの背後関係、陰謀もないということだった。

この報告書は、結論の明快さの中で、数多くの謎を謎のまま押し切ってしまったものだった。例えば、三発の銃弾にまつわる謎などである。幾人かの人々が、疑惑から独自の発言に立ち上がり、あるいは、かねての探査結果を、世界につきつけた。「ダラスの熱い日」の原作を書いたマーク・レーンは、そのような調査者の一人なのだ。共著のドナルド・フリードは、常に社会的な謀略に向かって戦闘的な抉り出しを続けるライターであった。

レーンとフリードが、まるで映画のハコガキみたいな構成で書き上げたこの小説は、「ジョニーは戦場へ行った」のベテラン戦闘作家ダルトン・トランボの手で、実に大胆に、小説的な枝葉を取り払われることになったのです。さながら京都の北山杉みたいに一直線な幹だけという、簡潔なシナリオに再構成されたのです。

そのため、この映画では、原作に比べると肝心の事件の"目玉"が、少し単純化されてしまい、大統領暗殺という犯行の、スケールも深さもやや小まわりの印象になったのを否めないのである。つまり、原作者は「ケネディを殺したのは、元CIA高官とテキサスの石油王を中心とする右翼的反動勢力グループである」、という想定に立っていて、彼らの雇ったプロの殺し屋集団の行動を克明に位置づけることで、ウォーレン報告も解明できなかった、あるいは解明しなかった謎を、実に整然と辻褄合わせてみせるのである。

なるほど、ここまで慎重に張り巡らした計画だったからこそ、あのような暗殺も完遂できたのだなと、唸らされるその緻密さは、やはり原作を読むべきだと思う。この映画化作品は、手短かにいきさつの幹線だけを描ききるため、やや細部の説明や論理が舌足らずな感も免れないのである。

しかし、映画の強みとは、改めてここで舌を巻かずにいられないのだが、何と言っても、映像だけが持つ"実感の具体性"である。ダルトン・トランボの脚本とデビッド・ミラー監督の演出は、映像のこの強さをフルに押し出して、一気呵成といいたい迫力と緊張感を、一時間半という時間に集中してのけたのだ。

ヴアージニア州の緑の中にそそり立つ元CIA高官ロバート・ライアン邸。そこでは、同じ元CIA要員で殺し屋集団を掌握するバート・ランカスターが、大学教授の解説なども交えてテキサスの石油王ウィル・ギアを口説いている。ミニマムでも今後十数年に渡って、アメリカに進歩的ハト派政策を敷き続けるはずのケネディ一家、それをここで暗殺によって阻止しようという計画への出資なのだ。

映画は、作者の想像力や推理によるこういう劇的な部分を、はっきりアクション映画風なタッチで描き進めていく。むろんカラーで。コロラド州の無人の岩山地帯、殺し屋グループが「三角火線」と呼ばれる狙撃法をトレーニングするシーン。暗殺の特訓を終えたこれら殺し屋が、モンタナ州ビリングをパレードするケネディの頭に、カメラで照準の狙いを定める予行演習の場面-------。これらは特に息詰まるサスペンスが、きびきびと生きた劇的なシーンだ。

そして一方、映画はこの1963年、次々と公開の場で進歩的な平和政策を打ち出していくケネディ大統領の姿を、故意に、ニュース映画やテレビの荒びた黒白画面で、投げ込んでいくのだ。それは、そのままに、あの運命の年の、ひとりの世界的な政治家のドキュメンタリーなのです。それと同時に、それは迫ってくる死の運命も知らず、若々しい理想主義に突き進んでいくヒーローの、サスペンスいっぱいな追われた姿でもあるのです。

一方がカラー、一方はモノクロという立体的な対比のため、このカットバックは、まるで西部劇の追っかけを全編に拡大したようなシンプルな緊迫を生み出すのだ。と同時に、あの進歩的な若い大統領の実行力が、こんなにも旧式な反動的"憂国"グループによって、消されなければならなかったのかという、喪失感を改めて大写しで押し出してくるのである。

本当に世界が乱れに乱れて、今日の混迷にまで落ち込んだ、その初めは、あのケネディが一瞬のうちに撃ち倒された、あの瞬間からだった。もしケネディがあの凶弾に倒れず、その進歩的な平和主義の政策を遂行しきっていたら?  ヴェトナムは、米ソは、米中日は、中東は、どのようになっていただろうか? -------。

映画は、カラーのドラマとモノクロ・ドキュメンタリーの対比で、観る者にそれを"実感"させた時-------もう、成功を遂げていたのだ。この二つのスタイルが、11月22日、ダラスの魔のエルムストリートで一つに合体するクライマックス。この暗殺の実況再現は、見事というより胸を締め付けられるように厳粛である。あの歴史的な「Oh,No!」の瞬間が、ここからは生々しいカラーの血となって、画面に飛び散り、私たちの地球が失ってしまったものの巨大さを、今一度、錐で刺すように、突き入れてくる。映像だけが再生してくれる、それは、人類の痛みの生理反応なのだ。

私は、客観的に考えて、この作品での推理だけが、ケネディ暗殺事件の真相を語るものだとは、考えない。原作の二人はともかくとして、脚本のダルトン・トランボもデビッド・ミラー監督も「これが真相なのだ」と観ている者に信じさせるだけが目的で、映画を作ったのではあるまいか。

犯人像は虚構であってもいい。大事な事実は、ケネディはまさに誰かの手で"殺された"のだということ。そして、それ以後、アメリカ政府はそれを謎のまま葬り続けているということ。しかも、その後、ケネディの志とは、必ずしも同じではなかった進行のため、地球は確実に"悪くなって"しまったということ。映画が思い出させるのは、そのことなのである。

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