山岸涼子の描くバレエ漫画珠玉の短編 - 牧神の午後の感想

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牧神の午後

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山岸涼子の描くバレエ漫画珠玉の短編

4.54.5
画力
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ストーリー
5.0
キャラクター
5.0
設定
5.0
演出
5.0

目次

バレエ漫画のオーソリティが描く、二人の天才の伝記的作品

牧神の午後には、二編に分かれています。前編はヴァーツラフ・ニジンスキーが主人公の「牧神の午後」、後篇はジョージ・バランシンの三人目の妻、マリアが主人公の「ブラック・スワン」です。

どちらも珠玉の短編で、天才であるニジンスキーとジョージというふたりの主人公は、その二人の視点から直接描くと、読者には共感し難いものがあります。ジョージは単なる気の多い男性として見る事もできますが、ニジンスキーは長年発狂しており、彼の手がけたバレエ作品も、当時は異端中の異端でした。

そこで、ニジンスキーは振付師のミハイル・フォーキン、そしてジョージを彼の妻であるマリアが、同情や恨みなど、人並みな感情を込めて語ることで、この二人の天才を、理解し易く魅力的な人物として描いており、伝記的な作品であるのに関わらず、退屈しません。

「牧神の午後」は、ヴァーツラフ・ニジンスキーとジョージ・バランシンという、20世紀に確かに実在したバレエダンサー、そしてコリオグラファーを描いたもの(作中に描かれているのも、ほぼ事実)でありながら、あくまで伝記「的」と言うのは、ニジンスキーの孤独。ニジンスキーの恋人であり、冷酷な興行者セリョージャ。ニジンスキーの運命を狂わせる引き金となった美女・ロモラ・ド・プルスカ。ニジンスキーを案じながら傍観するしかないミハイル等等。

端役にいたるまで抒情的に描かれており、伝記と言うにはストーリーにたっぷりと起伏があるからです。

山岸涼子のバレエ漫画の魅力―精緻に描かれる「パ」

山岸涼子のバレエ漫画で、代表的な長編が花とゆめで連載されていた「アラベスク」そして、手塚治虫文化賞を受賞した「テレプシコーラ」です。短編では、紹介している「牧神の午後」や「ヴィリ」がありますが、これらすべてに通じる魅力は、様々なバレエダンサーやローザンヌなど、最高のバレエ取材に裏付けされた、正確で美しいバレエ表現の数々です。

私のように、バレエをまったく習ったことがない人間でも、その練習方法やポーズの取り方が平易に描かれており、そのポーズの一枚一枚が美しいです。バレエダンサーの、体の平行を保つとはどういうことか、分かり易く垂直線を入れて解説しているシーンもあります。

「牧神の午後」の、二人の主人公。ニジンスキーとジョージは、バレエ界の異端で、その二人の振り付けは、厳密なクラシックと異なるところがありますが、それも山岸涼子は考慮して描いています。

この漫画の端々から、山岸涼子のバレエ愛が伝わってきますが、全体として説教臭くならないのは、山岸涼子の絵が淡泊であることが、理由のひとつであると思います。

失礼な言い方をすると、絵がうまくないと思う読者も少なくないかもしれません。背景もトーンも少なめですし、高齢なので、完全にアナログで原稿を仕上げていると思います。パースや下書きなど、デジタルで消去すれば時間の短縮になるでしょうが、デジタル技術が使われているとは思えない。人物の目や手など、小コマにはビックリするほど適当なものもあります。緩急があり、力を入れているものとそうでないものとの違いが顕著です。

その代わり、ポーズや登場人物の衣装など一部の大コマは、見出しにも書いた通り、いたって精緻に描かれており、山岸涼子のこだわりが感じられます。この、描き込みのメリハリが「牧神の午後」を、伝記的作品でありながら、事実をタラタラ述べるだけの作品とは一線を隔していると思います。

前半・ニジンスキーの「薔薇の精」そして、後篇の「ブラック・スワン」では、マリヤのオディール姿が印象的です。

この漫画で山岸涼子が伝えたかったこと―「空を飛ぶものに手はない。地上に生きるものには翼がない」

前半の「牧神の午後」で、ニジンスキーは、浮気な同性愛者のセリョージャに愛想を尽かし、美貌のロマと結婚します。それがセリョージャとの軋轢を産み、彼の計略で経済的に追い詰められ、心身ともに病んでしまいます。

後篇の「ブラック・スワン」では、才能ある振付師・ジョージ(通称Mr.B)と一緒になり幸せの絶頂にいると思われたマリア。、結婚後、ジョージが子どもを望まない上に、若いバレリーナにしか興味を抱けないことに徐々に気付き始め、彼の浮気相手を呪うとともに、そんな自分に自己嫌悪を抱き始める、というストーリ―になっています。

ニジンスキーも、ジョージも、比肩するもののいない才能を持ちながら、人として当然あるべきものが欠けています。ニジンスキーは、セリョージャがいなければ一人でレストランに行く事もできず、そして、ジョージは「素晴らしいバレリーナが出産・育児に美貌を費やすなんて愚の骨頂」という信念を持ち、それをマリアに押し付けています。

人は天才を見たとき、「翼のある天使のような存在」を期待するが、実際接してみると、その才能を相殺するほどの人格的欠陥がある。翼があるものには、日常的に細々としたことをこなす手は存在しない、と山岸涼子は書いています。

二つの作品で共通するメッセージは、見出しの通りだと思いますが、読者にとっても天才という素材が魅力的なのは、「手がない」というアンバランスさ故だと思われます。

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