リアリティのダンスとホドロフスキーと東洋思想 - リアリティのダンスの感想

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リアリティのダンスとホドロフスキーと東洋思想

5.05.0
映像
4.0
脚本
5.0
キャスト
4.0
音楽
4.0
演出
5.0

目次

リアリティのダンスと心理療法

リアリティのダンスは、ホドロフスキーの少年時代の思い出を作品として昇華し、彼自身の過去を書き換えた作品であります。

芸術家は度々、作品をセラピーのように扱う事がありますが、この作品も彼自身のセラピーの一つであると考えられます。

例えば、ジョン・レノンのマザーという曲も、心理療法から炙り出された彼の過去のトラウマを芸術として昇華したものであります。

ホドロフスキーはインタビューで「母はオペラ歌手になりたかったが、両親に反対され、店の売り子になった抑圧されたアーティストです。ですから、私は映画の中で彼女をオペラ歌手にしたのです。」と述べています。

心理療法の世界では、記憶を書き換える事は出来ないが、記憶へのネガティブなイメージをポジティブに変える事が出来るといいます。それによって、トラウマを克服する事が出来るのです。

彼の映画も、過去の出来事を映画の中で彼の理想の姿に変える事で、彼の幼少期の記憶はネガティブなものからポジティブなものへと変えようと試みたのでしょう。

主人公は父親

この映画の広告では、彼の幼少期を描いた作品だと紹介されていました。私も、彼の幼少期を反映したキャラクターのアレハンドロが主人公だと思い、映画館へ赴きました。しかし、終盤に向けこの映画の主人公はアレハンドロではなく、父のハイメだと言う事が見えてきます。

ハイメはアレハンドロに対して、虐待まがいの教育を行うとても厳しい父親でした。そのハイメがイバニェスに対する復讐を通して、自分のトラウマを克服していく話がこの映画の主題となっています。

彼は、自分の復讐を通して、自分の心の中にある善の気持ちに気づいていきます。ハイメがイバニェスの馬番になり、イバニェスの愛馬を殺す事を企てますが、彼は馬を殺すことに戸惑いを感じます。あんなにも憎いイバニェスの馬を殺す事に躊躇する中で、彼は自分の中にある善意に気づくのです。

このくだりはトルストイの小説と似ていると感じました。トルストイのアンナ・カレーニナでは、不倫した妻を許せない夫の心の中に、自分では認められない感情があることを感じ、それは愛の感情だと悟るくだりがあります。その後、その夫は今までの俗世的な生活から離れ、宗教的な思想へ傾倒し、善良な人間へと変化しました。

その他、トルストイの小説の多くは、堕落した人間が善良な人間へと変化する作品が多くあります。そこには、読み手にカタルシスを感じさせる魅力があります。

リアリティのダンスでも、厳しいハイメが善良な人間へと変わるところに、人間の本性は善なのではないかと思わされるような、希望とカタルシスを感じさせます。

ホドロフスキーの美意識

自分の中の善意に気づいたハイメは、今までと同じ生活を送る事は出来なくなります。彼は、過去の呪いのように腕が麻痺して固まってしまい、探求の道へと進むことになります。

ホドロフスキーにとって、手とはなにか重要な意味があるのではないかと私は考えます。過去の作品のサンタサングレでも、手を切断された少女が聖女として現れます。ホーリーマウンテンでも主人公の手が固まる場面がありますし、手のない奇形の人もたくさん登場します。

手とは芸術を創造する手なのではないかと私は考えます。その手が使えなくなるというのは、ホドロフスキーにとっては相当な拷問だったのではないでしょうか。その拷問というのも、自分の罪の意識から現れるものであり、結局はすべて自分の問題なのだと感じますし、ホドロフスキーもそう言いたかったのではと思います。

その他、ホドロフスキーは世間で醜いと思うものに美を見出すという思想を持っています。手が動かない不自然な人間や、奇形の人に対して彼独自の美意識があったのかもしれません。そして、その独自の美意識が彼の映画を際立たしている大きな要因となっています。

ハイメの悟り

探求の結果、ハイメが殺したかったイバニェスは、自分であった事を悟ります。東洋思想では、全ては幻想であり、自身の投影だと説きます。

例えば、自分の中に憎しみがあったり、自分の事を認める事が出来ないと外側に憎むものを投影してしまうという事があります。彼の場合は、彼は家族の独裁者でありました。その事に対して、無意識的な罪悪感等があったのだと思います。その罪悪感や、抑圧された感情が外側に現れたのが、イバニェスです。

ハイメ自身、やりたくて家族に対して厳し態度をとっていたのではないと思います。彼自身の生育環境などによって、彼の人格は形成され彼は家族の独裁者となりました。

彼の真の心は善良なものでした。それゆえに、独裁者となっている自分が許せず、その感情が外側の独裁者への復讐という形で現れたと考えられます。

外側の独裁者と対峙する中で、自分の中にある善に気づき、彼はイバニェスが許せないのではなく、自分自身が許せなかったというラストへとつながります。

このような、ホドロフスキーの心理的な描写はとても深い物があります。その背景にはホドロフスキー自身が、精神的な探求を積んできた事が大きく影響していると考えられます。業者の体の入れ墨は東洋思想の中で、人間の生命エネルギーだと言われる七つのチャクラを表しています。このようなマニアックな描写は東洋思想を知ってる人間をニヤッとさせる事があります。

インタビューによると、ホドロフスキーの父親はハイメのように厳しい人だった様です。彼はこの作品を通して、彼自身の虐待まがいの父に対するトラウマを、父親を善良な人間にする事によって解消したのだと思われます。

それと同時に、観る人にもカタルシスを与え、外側ではなく内側に向かうようなメッセージを伝えているのだと感じました。


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