因果は巡ると感じずにはいられない映画だった
男の特殊能力の代償に注目した
主人公「男」は、特殊能力を持っています。自分の意思で自由に男以外の人間を止めたり、操ったりする日々を送っています。
男の目に入った人間を自由に操る代償として、身体が壊死していくという側面もある主人公を描いた映画です。
映画を見ていて強く感じたのは、他人を思い通りに動かして痛めつけた後の代償です。
人間誰だって、自分の意のままに他人を自由に操作することができれば、その能力を使いたくもなるし、使わずにはいられなくなる面もあるかもしれません。恐ろしい能力だと知りつつも、使ってしまうのも、人間は心のコントロールまでは自由自在にできない証でもあるような気がしました。
感情コントロールができるという意味は、思っていることや感じていることを態度にそのまま出さないことであって、社会性にも通じる面があります。社会人として当然のスキルのように言われている感情コントロール力ですが、本心では違うことを感じ取っていることがままあるのも人間の性です。
立腹、怒り、苛立ち、焦り、嬉しい、喜び、嫉妬など人が持っているあらゆる感情は、勝手に湧き出るものだけあって制御は不能です。感情コントロールとは、自分の内部に出てしまった感情を、如何に外部に出さずに社会人らしく振る舞うか、ということだと私は考えています。
だからこそ男のように因果関係の立証が困難になるような特殊な能力を持った場合には、つい自分の特殊能力を試してみたくなっても何の不思議もないな、と思いながら見ていました。
証拠保全していたって、その証拠を保有する人間さえも抹消しようと思えばできてしまうほどの能力だからです。
男は幼少期から既に特殊能力を有して、その自覚もしていました。小さな子供にこの能力の意識があるにも関わらず、使わないように自制するのも大変なことです。だからこそ、そのまま大人になってからも使い続けていたのかもしれません。
だけど結局、男の特殊過ぎる強力な能力は使えば使うほど、自分の身体の一部が壊死し無くなっていくという面もセットでした。
男の能力は一見高いようでいて、必要以上に他人を痛めつける行為のリスクと代償の集約のような気がしました。物事には何でもメリットとデメリットがあるからです。
主人公の「男」が終一に執着する理由は複雑な背景があるように見えた
田中終一には男の特殊能力が一切通じませんでした。男が何度も終一の動きを止めようと試みましたが、まるで効かず焦っていました。
他人を思い通りに動かすことができる能力によって、男は子供の頃から苦労しています。特殊能力があるからこそ家族ともうまくいきませんでしたよね。社会とも隔絶して生活してきました。
そこまでしなければいけないほどの男の特殊能力が一切通用しない終一の存在は、自分と初めて本当に分かり合える人かもしれないという期待と、「何で俺の能力が通用しないんだ」という焦りが複雑に入り混じった心境だったからでは、と思いました。
今まで能力の件で孤独に生きてきて、だけど能力が通用しない終一を目の当たりにすることで、これまでの人生を全否定するかのような存在に見える苛立ち。
その一方で、初めて同等の特殊能力を持った人物の登場で、終一がどこまで本物なのだろうかと試したくなって、それで必要以上に執着し、能力の限りを使っていったのでは? と思いながら見ていました。
男の焦りと期待の心境が複雑に絡み合い、存在を認めて助けて欲しい、終一ならもしかすると自分を分かってくれるのでは、という心境もあったようにも見えます。だけど、まだ終一がどこまで本物かが分からない。だから必要以上に能力を使う。能力が理解されずにこれまで生きてきて、「助けて欲しい」とうまく言えない葛藤もあったから、終一に執着したのかなと思いました。
自分とほぼ同等の特殊な能力を持っているにも関わらず、普通に社会に溶け込み運送屋のバイトをしている姿の終一に、嫉妬も感じているようにも見えました。嫉妬と能力が通用しない焦りと自分と初めて分かり合える人物ではという期待感が入り混じった感情から、爆発してしまったのでは、とも思いました。
男はもともと自分の感情をうまく表現することができない人にも見えました。それは特別な能力があるからこそ、自分の感情を理路整然と話すことができなくなったという側面もあるかもしれません。
男の暴発はマイノリティを極端に排除しようとする一部の人間達の顛末のようにも見えた
男と終一の特殊能力の方向性は違います。終一は不死身のような要素が強くて、男は他人を意のままに操って動かすことに長けています。終一の方が感情とは別の能力になるので、社会に馴染みやすいという面はあります。
男のようにあまりにも特殊過ぎる能力を持つと、性格によっては社会に適応できないリスクも同時に出てくるし、同じような特殊能力を持った人に出くわすと、暴発してしまうことだってあるという一例を見ているような気がしました。
映画の場合は特殊過ぎる例ですが、世の中にはあらゆるマイノリティがあります。社会的少数派を受け入れていく寛容さが多少でも世間になければ、社会は崩壊するという凝縮を見たような感覚にもなりました。
身近な人が理解する姿勢を持ち、その能力や少数派に対して寛容になり容認する心がなければ、巡り巡って自分にも返ってくるような気がしてならないからです。
男も能力を使い果たすことで自分の身が削られていくという因果があります。この点は、社会的背景を問わず誰にでも当てはまることです。
それと同時にマイノリティを極端に排除しようとすれば、いずれ男の特殊能力が暴発したように、社会も崩壊しかねないという、あり得なさそうで有り得る話でもあるのではと思いました。
社会はいろいろな背景の人間がいて、持ちつ持たれつになって成り立っているからです。
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