天才役者「心の軌道習性」 - 山田孝之の東京都北区赤羽TAKAYUKI YAMADA in TOKYO-TO KITA-KU AKABANEの感想

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山田孝之の東京都北区赤羽TAKAYUKI YAMADA in TOKYO-TO KITA-KU AKABANE

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天才役者「心の軌道習性」

4.04.0
映像
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脚本
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キャスト
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音楽
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演出
4.5

目次

「山田孝之」が気になって

映画は好きだがテレビ番組は普段からあまり見ないため、芸能人のことには極端に疎い。二宮和也と向井 理も見分けられなかった私。そんな私に、かつて勤めていた会社の同僚が理想の男性で大ファンだという山田孝之について語ってくれたことがあった。いろんなことを言っていたけど要するに“天才役者”だということだ。いったいどんな俳優かと思い、アマゾンプライムで探していたら見つけたのが、よりによってこのドラマだった。私にとって“初山田 ”は、「ウシジマくん」でも「白夜行」でもなくこの“赤羽”だ。ドラマを観終わったあと、立て続けに山田孝之主演の映画やドラマを何本か観た。結果、元同僚の言うように山田孝之って俳優はきっと天才なんだなと思うに至り、まだまだ若いけど、これからが楽しみな役者だと期待するようになった。ときどきふらりと立ち寄る劇場でも、新作フライヤーの中に山田孝之の名前を探したりするのだ。映画「バクマン。」ではジャンプの編集者役を好演していた。

ドラマと現実の間

このドラマを通して初めて「モキュメンタリー(Mockumentary)」というジャンルを知った。しばらくのあいだは本当に“スランプに陥った俳優・山田孝之の記録フィルム”だと思って観ていた。NHKの特別番組みたいな造りになってるから、なんとなく雰囲気に流されるようにして観ていたのだ。初めて“あれっ?”と思ったのは、山下監督が登場するシーンでの彼の言動だった。ずっと温めてきた題材で映画を撮ろうという人間があんな風に弱弱しい自己主張で、いくら売れっ子俳優の山田孝之が相手だからといって不様に振り回されるとは、素人の目にもちょっと信じ難いではないか。

そこで劇中劇「己斬り」の信ぴょう性が揺らぎはじめる。そういえば、最初から何か胡散くさい映画だと思った。でも山田孝之は本気で演技をしているように見える。「騙されてる気がするけど、でも本当かも知れないし…」という、騙されることの快感みたいなところを上手く突いてくるのだ。このドラマに一貫して流れている面白さだと思う。そんなむずむず感が最後までずっと続く。思えば完璧な騙しは嘘でも真実でもない単なる虚構であり、そこには何の面白味もない。

騙されたって別に害があるわけではないが、人はいつもその辺のところをハッキリしたいと思っているのだろう。その思いに囚われたままこのドラマを最後まで観つづけることは難しいし、おそらく正しい楽しみ方ではない。揃いも揃って微妙すぎる登場人物たちの毒にやられて疲れ切ってしまう。その辺の感覚とか、観る角度を自分自身の中で幾度も微調整しながら試行錯誤するのもこのドラマの面白いところ。

山下監督という人はこれ以外にもモキュメンタリー作品をたくさん撮っているというのは後から知った話だ。冒頭劇中劇での胡散臭い芝居や、最後の寸劇で「鬼とは己自身」といった山田孝之の下手な台詞は、単純に笑うところじゃなかったのだ。そもそも、芝居というものの本質が騙しなのだから芝居は面白い。と私たちは認識している。騙されていると知っていて騙されるのは、つまり意識的に自分で自分を騙すという「自己欺瞞」だ。これは世に無意識の自己欺瞞なるものが存在することを意味するのであり、「鬼は己自身」という台詞につながっている。

アレな登場人物たち

このドラマの登場人物たちがすべてプロの俳優さんだったらすごいと思ったのだが、実際はナマの人たちだったようだ。それはそれですごい。こんな人が実際目の前に現れたらどうしよう。山田孝之があんなふうに紳士的な対応で接しているのは、自分というものがあるからだ。私にはない。「山田孝之」とは私自身ではないのか。と卑屈になってみたりする。実在の人物がマンガとして描かれ、マンガから飛び出してきたような登場人物たちが自分役でドラマを演じている。まるで合わせ鏡のミラーワールド、万華鏡の世界だ。

人は成長するに従い、早かれ遅かれ自分の気持ちよりも周りの期待や場の流れに沿って生きようとするようになるのが常であるが、本当の自分として生きたいという願望はずっと心の奥に蓄積されていて、いつかチャンスがあったら埋め合わせたいと望んでいるのかもしれない…。そんな今どき陳腐とも思えるような心の葛藤にもういちど光を当て、見せつけてくれるような登場人物たちだ。原作を読みたいとは決して思わない。

彼らのことを気持ち悪い(失礼)とか、あんな風にだけはなりたくないとか、ここにはゼッタイ身を置きたくないだとか思っている私の考えは本当に私の考えなのだろうか?本当は、山田孝之と同じように心の中で彼らを求めている自分ではないだろうか?少なくとも、心の赴くままに生きている(ように見える)彼らこそ、真に“生きている”と言えるのではないか?自分は彼らに何かを学ぶべきではないのか。ストーリーがすすむにつれ、そんな強迫観念が次第に強くなってくる。きっと、天才・山田孝之に感化されてしまうのだろう。あのまっすぐな目に騙されてしまうのだ。

ついていけなくなったときは…

山田孝之は赤羽でたくさんの人に出会い、心を開いて己の内面を見つめようとする。ジョージさんの筋は通らないけど妙に怖い恫喝や、変な言いがかりにも真摯に耳を傾けようとするシーンなど、彼が赤羽の人たちに心を寄せる心理の描写自体はすごくナンセンスで笑えるのだけど、“自分は15歳で上京して芸能界に入って…”などと説明されれば、案外そんなものかなと思ったりする。世間知らずともいえる素直な感受性の発露を目撃し、私の中の何かが反応するのかもしれない。

山田孝之がグッチのTシャツに変な自作のロゴを刺繍を施したいと言いだした時、ああもうだめかも自分の中で!と感じた。何がダメだったのかは今でもわからないが。そんなとき、あんなとき、折に触れて登場するのが同じ俳優で親友の綾野剛や映画監督の大根仁のような「普通の人たち」だ。このドラマでは、おそらくタイミングも計算ずくであろうこれらのキャラに何度も救われる。特に大根監督の芝居はリアルで良かった。そうだよそうだよ、せっかくの才能が台無しだよ!とモニターの前で思わず同意する私。この時点で一応自分なりに“これはフィクション”として観ているつもりだったのにもかかわらずだ。

至極まっとうな論で山田孝之をいさめたり心配したり、遠くから見守ったりする「普通の精神」の人たち。さながら激辛カレーに付いてくるラッキョウのような、激甘おしるこに添えられたたくあんのような、様々な葛藤と戦いながらもひとまず小休止させてくれる一服の清涼剤だ。私は自分のアイデンティティーを擁護されたようでホッとする。のも束の間、次々と畳み掛けてくる変なエピソードとキモい登場人物たち。次第に慣れてくる自分。人の適応力ってすごい。

無事に最後まで観終わって思ったこと

山田孝之はいわゆる憑依型とかいわれるようなタイプの俳優ではないと思うのに、どの作品を観ても、まったくその役になりきっているように見える。引き込まれてしまう独特の魅力を持っていると思う。顔立ちが端正なこともひとつだろうが、やはりこれは天性の感覚だと思う。ドラマにはふたりの実姉たちも実名で登場してくるが、“山田孝之の姉”という枠から出られるものではない。あと何年かしてもう少し渋みが出てきたら、北大路欣也が演じた弘法大使空海の役をやってほしいとひそかに思っている。面構えが似ているし、きっとステキな空海を演じてくれると思うのだけどなあ。山田孝之が歌うエンディング主題歌「TOKYO NORTH SIDE」も80年代風でなんか良かった。

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