スターリン、ヒトラー、毛沢東。個人の魅力と「カリスマ」に踊らされた20世紀
行きすぎた誤った個人主義
20世紀とは、まさに「カリスマ」や「偉大なリーダー」と言った安易な言辞に振り回され、人類史上もっとも冷血で、腐肉臭く、暗黙裡の全体主義の旗本で殺戮を繰り返したさもしい時代、と呼んでも過激すぎるなんて反論は出てこないだろう。その20世紀最後に、今作が発表されたのは必然であり、忌避してはならない宿命であったと断言できる。ポケモンコレクターの存在がその分かりやすい例。彼の行った行為は、自然界の摂理に反する社会的には非常に危うい事であったには間違いない。しかし、当の本人は、おそらく、そこまで頭を回してはいない。自身がしたいからする。単純明快な答案である。仮に、彼に対して「こんなことを続けていたら、人は、ポケモンは、この水の星に住めなくなってしまう」と良心に問いかけてみても、徒労に終わるのは明白である。劇場版の第5作「水の都の守り護。ラティオスとラティアス」のエンディングシーンで判明したことだが、カリスマ的特性がやはり彼にはあった。人は、カリスマやリーダーを期待するが、むしろ、そのような言葉には不快感を抱かざるおえないのかもしれない。
ビジョン、行動、理解。全ては遅れてやってくる。
これは、ポケモンも、人間も、関係なく発言しても構わないと考えられることですが、今作では、個々の役割を演じることを劇全体を通して表現していることに気付くはず。カスミがなぜ、恋愛感情も抱けるはずのない、ガキンチョ、サトシを身を粉にして助けたのか、ロケット団がなぜ、「あんたが、主役」などという台詞を発し、サトシをアシストしたのか。今作では、一見、自己犠牲にとらわれがちであるが、実のところ、ただ、単純に自身がもっとも輝く役割を遂行したように思う。だから、他者から説明も聞かれない、しない、もしくは念頭にすらおいていない。理解は遅れてやってくる。体現的であることには間違いない。
21世紀を生きるものとして
20世紀が平然として、天才に頼って生きてきましたが、残念ながら、21世紀はそんなふうには回ってはくれません。この作品は、嘘をつかず、はっきりと目を合わせて答えてくれます。カリスマを唾棄すべきこと、生き方は教えられないが最善の手はあること、やりたいことではなく為すべきことをすること。次のターゲットを決めたポケモンコレクターと、人びとの前から姿を隠し神話的存在であることを選んだルギア。何を今大切にすべきなのか、じっくりと見つめ直す機会になる作品です。
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