おさるのジョージにみる理想的な社会
自由奔放なおさるによる日常
主人公がおさるならではの、独創的な発想と自由奔放な行動は子供はもちろん大人も心くすぐられる。おさるによって引き起こされる日常の中の非日常の様子は見ていて飽きない。主人公がおさるなので、その時点ですでにかなりの非日常レベルだが、彼はすんなりと周囲に溶け込み受け入れられている。周囲にとってはすでに彼は日常の一部なのだ。
周囲の寛容さ
現実で考えれば迷惑行為になりそうなものも、周囲の大人たちは特に気にせず、最後にはさすがおさるだと敬意を表する。このおかげで視聴対象である子供達も、自然で自由な発想や行動を強く叱られる事なく解決まで導いてくれるストーリーに安心して、主人公に自身を投影する事ができるのだ。
母親の存在の欠落
黄色い帽子のおじさんとおさるのジョージの関係性は、初対面の場面や設定こそ映画版、絵本版、テレビ版で多少異なるが、日常ストーリーでは親子関係に近い。本編でおじさんがジョージのことを「うちの子」と言っている事からも伺える。ただし、おじさんは独身設定のため、母親としての存在がいないことになる。これは、ジョージに限らず、このアニメの世界に登場するキャラクター全般的に言えることで、存在としては軽く触れられる程度だが、主要キャラクターとして登場する中に母親となる人物は見当たらない。例えば、都会の友人であるベッツィーとスティーブの保護者の女性はおばさんとされている。ピスゲッティさんには奥さんがいるが、子供の存在は出てこない。ワイズマン博士は女性だが、パートナーの存在がなく、独身と思われ、子供の存在も出てこない。田舎の友人のアリーはレンキンス夫妻を祖父母として登場するが、母親については会話ですら出てこない。ビルには母親らしき人物がチラッと出るが、ほとんど姿としては出ず、ビルの会話中に母親がいるらしい事が伺える程度である。唯一母親として登場しているのは、マルコの母親であるが、登場回数は圧倒的に少ない。このことより考えられるのは、このアニメ世界の多様性を示唆している。子供に母親がいる図は普通であり一般的であると考えられるが、あえてそうではない関係性で繋がるキャラクターを登場させることで、多様性を認める世界観を作り出している。多様な人達による、それぞれを受け入れて楽しむ社会、それがこのアニメの世界観だ。この事により、ジョージの驚く行動もイタズラも全てが受け入れられ、見事に解決へと導かれるのである。
許される主人公
ジョージの行動は現実で考えると、かなり困りそうなものが多い。例えば、シーズン1の『ドーナツこわい』では、部屋中ドーナツだらけになる。主婦にしてみれば想像するだけで恐ろしい。この後の油だらけであろう部屋中を誰が清掃してくれるのか、考えただけで背筋がゾッとする。そんな酷い有様の部屋については、さて置かれ、ドーナツが腹ペコ消防士たちにプレゼントされたことで、むしろ喜ばれているのには驚くが、これこそがこのアニメの世界観だ。ジョージはどんな事も常に許されるのである。これは、肯定され愛されている証拠でもあり、育児の上でもとても重要だとされる。行った行為への注意は必要だが、強く叱る事で相手は萎縮し、果ては失敗を隠すようになってしまう。黄色いおじさんからジョージへの軽い注意や制止はあるものの、強い禁止や抑制、失敗への追求や叱責は見られない。注意されるにしても、サラッとしたものばかりだ。唯一禁止事項とすれば、黄色い帽子で遊ばない事という点。シーズン2の『オー・マイホーム』では、ストーリーの途中までは、禁止されていた壁に絵を描くべからず、足でバターを塗るべからずのルールがあるものの、最後にはジョージのツリーハウスに黄色い帽子のおじさんが入ってジョージルールに従うという落ちになるものまである。このことにより、ジョージは息苦しさなく、のびのびと発想し試行錯誤する自由を得ているのである。
おさるを責めずに自らを反省する大人達
再びシーズン2の『オー・マイホーム』でも見られる事だが、ジョージのツリーハウスを作るのに田舎の大人たちから材料を恵んでもらったが、材料が足りなくなった事で大人たちが許した以上の材料を勝手に調達してしまう。そのことに気づいた黄色い帽子のおじさんは一瞬怒った表情をするものの、ジョージを責めることはせずに、返却する説明のみにとどめる。それどころか、調達されたクイントさんは自身の言葉不足を反省し、好きなだけ使うようにと言った言葉通り使用することを許すのだ。我々現実の大人なら、子供の失敗に対して、原因が判明した場合受け取り方の問題…子供の問題と捉えて反省させ次回はそのようなことがないようにさせる事を考えてしまう。ところが、ジョージを取り巻く大人は、ジョージにわかるように説明しなかった大人側の問題だと捉えるのだ。
理想的な保護者の姿と現実の保護者
前述までのとおり、黄色い帽子のおじさんを中心に、ジョージを取り巻く大人たちはおおらかで優しく、肯定的である。それを見る現実の子供たちは、怒られないおさるの姿に安心して自らも想像力を自由に働かせる事ができる。ところが、現実の母親達は出来すぎた親の姿に、打ちのめされる事が往々にしてある。現実の親子では、子供のイタズラや失敗に対して、頭ではわかっていても感情的にならないではいられない。怒らない子育てという育児法のようなものが流行したのも、そうでありたい、でもうまく感情をコントロールする方法ができない葛藤からだ。理想と現実のギャップに苦しむ母親達が、理想の姿を突きつけられると、今度は自分の言動を自ら責めてしまうことがある。果ては、そのアニメキャラクターが完璧な大人であるから、自分を責められた気持ちにされてしまうという結論に至ってしまうこともあるのだ。その例が、しまじろうのアニメである。しまじろうに出てくるしまじろうの母親は、視聴者である母親達からの意見により数年前に大きな変化を遂げた。かつては、しまじろうの言動に肯定的で全てを許す存在であったが、視聴者側の母親達がしまじろうの母親を理想的な母親像として見せつけられる事に違和感を感じたということから、最近のしまじろうの母親はしまじろうのやりたい事に制止をかけたり、叱り、育児に悩み、親子関係をギクシャクさせるストーリーまで盛り込まれている。ところが、ジョージはその逆で理想的な関係や子供たちへの対応を変わらずに見せている。それでも、視聴者に反感をかうことがないのは、前述の母親の存在の欠落も手伝っているだろう。母親としてのキャラクターが完璧な姿をとして登場していないからこそ、視聴者に受け入れられているのである。
働く女性達と利発な少女達
黄色い帽子のおじさんの職業がいまいち掴めないかわりに、登場する女性キャラクターはほとんどが働いている。都会キャラクターで登場する回数も多いワイズマン博士は科学博物館の博士である。ピスゲッティ夫人は夫のレストランを手伝い、田舎のレンキンス夫人も農家として動物達の世話から作物の加工までに携わっている。レンキンス夫人は、更にりんごジュース工場まで自作している。どの女性も子供がいないからこそなのかもしれないが、登場する女性達が様々な職業についていることで、子供たちも女性=家にいるという事に捉えずに社会や生活を知る事ができるのだ。わかりやすいフェミニズム的な表現の一端であろう。また、登場する少年達を比較対象としているかのように自然と少女達は利発的で自由な存在となっている。都会の友人スティーブは短絡的で自らを誇張するわりに失敗が多く、しかしそれを反省することはない。しかし、その妹のベッツィーはそんな兄が世話がやけると嘆きながらもうまく付き合い、ジョージと協力して問題をクリアしている。田舎の友人ビルは登場キャラクターの中では年長者に見えるが、肝心なところで失敗したり、ダンスができない事を否定的にとらえ、仮病を装う事で回避しようとする。しかし、ビル同様にダンスができなかったアリーだが、できなくても前向きに楽しんでいるのである。しかも、そのダンスパーティーを開催した本人ですらあるのだ。できないことに捉れずに楽しく挑戦する少女の姿は、登場する働く女性達のようにいずれ臆することなく社会進出をしていく未来までも想像させてくれる。
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