30年経ち、大人になって鑑賞すると印象が変わる作品
ヒット当時は誰もが憧れた青春アニメだったが・・・
タッチは原作、テレビアニメ、アニメ映画とも1980年代には大ヒットし、2000年代に突入してからも原作の発行部数が伸び続けているという人気作品である。
高校野球、美人マネージャーの幼馴染、イケメンの双子と憧れる青春のシチュエーションのおいしいとこ取りのような作品だ。
ヒット当時は夢中になったものだが、大人になって色々と対人関係の経験値を上げた状態でこの作品を見ると、手放しで憧れるシチュエーションだとは言えないと感じる。
まず、ヒット当時もやや感じてはいたが、双子の兄の達也が、弟和也存命中の扱いがどうしても和也の噛ませ犬っぽくなっていて、何となく見ていて居たたまれない。このアニメは原作やテレビアニメのダイジェスト版の上に、ある程度設定を改変して短い尺でまとめた劇場版なのだが、和也が亡くなるのはこの作品の本当に終盤に近い方なので、ほぼこの作中では和也が存命で話は進んでいく。この噛ませ犬的扱いについては後述するが、意外に達也にとっては根深い問題だったのではないだろうか。
あと、これはネット上でも一部話題になっているが、浅倉南と言えば美人で万能な女性の代名詞になっているが、こうして30年経って作品を見直すと、彼女は万能どころか顔がかわいいだけでかなりあざとい。彼女の誤った親切心は親切でも何でもないことを大人は知っている。
アンチ推奨するわけではないが、浅倉南の欠点をよく理解している人は、そのあたりよく分かった人なのではないだろうか。
双子という比較の中での人生
背番号のないエースでは、高校に達也と和也、南が入学し、部活動を決め、和也が予選の決勝の日に事故を起こして欠場し、驚きのラスト、概ねその部分までが一本の作品になっている。
よって、達也と和也がどうしても比較の中で生きている部分が強く出ている。どうしても感じてしまうのは、和也が性格の落ち着いた、スポーツ万能のできのいい弟で、達也もそこそこ身体能力があるものの、ノンポリ風で呑気な性格に描かれている。そして、うすうす弟にコンプレックスを感じ、どこか弟との比較を受けない場所で自分を確立したいという、「上杉和也の双子の兄」ではなく、「上杉達也」個人としての居場所を求めている感じを受ける。
和也が達也を「兄貴」と呼んでいるが、実は双子で兄貴、とかお姉ちゃんなどと呼ぶのは、現実の事例としてはかなり珍しい。男性なら名前で呼び捨て、女性は○○ちゃんなど、どっちが兄弟姉妹ではなく、対等な呼び方をしている事例が多いのだ。これがいけないということではないが、なんとなくわざわざ和也が「兄貴」と呼ぶことで、無理にパッとしない(物語の序盤は)兄を立てているようにも思え、和也が「達也」と呼んだ方が対等感が出ると感じたのは私だけだろうか。
他にも、達也が野球部に入るのをやめる、ボクシングを始める、普通なら何をするにも俺の勝手だろ?というところだ。しかし、南の干渉などによって、セリフではっきり言ったわけではないものの、「カッちゃんもやるのになぜタッちゃんは野球をやらないの」「何でボクシングなんかやるの」と何をするにも無意識の比較の呪縛から逃れられない。
和也が予選で苦戦しているときに達也は思いのほかボクシングの試合で活躍するシーンが流れ、和也が活躍すれば達也がぼろ負けするという「対比」のシーンが流れる。
恋愛やスポーツでもある意味ライバルとも言える二人なのかもしれないが、達也はそれが嫌でボクシングに活路を見出したのでは?と思うと、作品の構成上仕方がないとはいえ、和也が死ななかったら達也は一生この呪縛から逃れる術がなかったのではという息苦しさのような憐れみを感じてしまう。
和也の方には噛ませ犬感がないのに、達也の方には噛ませ犬にさせられている感がかなりある。
和也が予選の決勝に進出が決まり、南の父がお寿司を取ろうと言った際に、南が指摘するまで達也の分を数に入れてなかったエピソードも、そういう噛ませ犬感を助長させている。このシーンでは南が達也にキスすることでフォローは入っているが、それもその後の南のどっちつかずな態度のせいでやや効果が相殺されてしまっている感じを受ける。
感想としては総じて達也の扱いがかわいそう、と感じるが、同じ思いを少なからずしたことがある双子や、年の離れた兄弟姉妹には共感が持てる複雑な心の機微を表現しているとも言える。
南の態度は本当の思いやりではない
和也は生前から、南は自分のことも好きだと言ってはいるが、本当は達也の方に好意があることを薄々感じ、達也や南本人にもそれを話している。和也は、社交辞令なんかではなく正直な気持ちを言ってほしかったと思うし、おそらく彼の人間性から判断して、達也と南がつき合うことになっても祝福したと思われる。
しかし、兄の達也は自分への自信のなさか、南のどっちつかずの態度に彼女の感情を測りかねているのか、そして南を一途に思う弟への遠慮かで恋愛面では若干素直になれない。せめて自分も南が好きだとくらい宣言し、勝負だと出てもいいようなものだが、達也はそういう気性の持ち主ではないらしい。
それに、作中では「カッちゃん大好き」という幼いころの南のセリフにこだわっていて、南は自分が思いを寄せようと、和也の方に気持ちがいっていると勘違いしている風もあるようだ。
しかし南はどうだろうか。南は和也の予想通り、達也に気があるとしか思えぬ気の使いようである。でも、和也にもいらぬ気を使っているせいで、「カッちゃんはこうなのに、タッちゃんはこうしないの?」という物言いが散見され、これが余計に達也の「双子という比較の呪縛」を強調しているように思える。あこがれの幼馴染のこういう物言いが、本来潜在的能力は和也に劣らないものがある兄であったのに、達也を和也の噛ませ犬のような印象にさせてしまう最大要因にもなっているのだ。
また、達也にキスをしておきながら、和也がまるで自分の死を予見するよな「ずっとそばにいてほしい」「南は兄貴のことが好きなのでは」という告白に、自分はどっちも好きだし、ずっとそばにいるという言い方もしている。これは本心なのか、もし和也を邪険にできず、達也が好きなのにその場を取り繕うために和也の前で無難な回答をしたのだとしたら、和也もバカにされたものだと感じてしまう。
和也は両想いの二人が気を使って、自分の思いのために正直にならないようなことをされたら、自分が憐みで同情されているようにも感じて嫌だったろうし、二人の幸せを願ったから二人に正直になったのに、和也の誠意に対して南の態度は本当にいただけない。和也が万一亡くならなかったら、お義理で結婚していたのだろうか?とすら思ってしまう。(恐らく和也が断ることになったかもしれない)
物語にはいろいろ改変はあるが、どこか南の気持ちのはっきりしない面は、全編通して解消されることはなく、その点はフラストレーションがある作品だ。
ヒロインの真の魅力に疑問
また、今になって見ると、南は案外女王様気質でわがまま、達也と和也が自分の言うことは聞いてくれると勘違いしている面が散見され、一人称が「私」ではなく「南」なのも、かなり女性としてはあざとい感じを受ける。この作品では教師、コーチとなっている、原作で言うところの先輩マネージャー西尾佐知子や、同じあだち作品の「みゆき」の鹿島みゆきに比較すると、やや憧れの対象としては、内面的役不足を感じてしまう。高校1年生ではこんなものかもしれないが、30年、年をとった当時の視聴者、読者には、そんな見方も出来てしまう。
大胆だがブレのない改変
背番号のないエースの最大の特徴は、大胆なラストの改変と言ってもよい。原作の長い物語を知っている人には、やや改変に不満がある人もいるだろうが、失敗する改変というのは本来の原作のメインテーマが改変によって歪曲された場合ではないだろうか。
その点においては、この作品の改変は、メインテーマに完全に沿っており、場合によっては原作より好意的に感じる人もあるだろう。2016年に月間少年サンデーで作者のあだちさんは、タイトルのタッチ自体が和也から達也へバトンタッチの意味だと明かしている。最初から和也の死ありきだったのは若干さみしいが、まさしくバトンタッチという意味なら、背番号のないエースは短時間にそのテーマを見事に表現していると感じる。
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