頽廃的で耽美な狂気の世界を描き、凄愴の情念が燃え立つ幽遠な愛のドラマ 「愛の嵐」
このリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」は、なんと衝撃の、頽廃の、異常な、そしてデンジャラスな甘美な愛のドラマなのだろうか。
1957年ウィーンの冬。灰色に沈む冷雨の中を、黒いコートと傘のマックス(ダーク・ボカード)が行く。傲慢な紳士のように見えるが、だが彼は、古びた中級ホテルの夜勤ポーターにすぎない。
暗鬱の翳り。額に走る傷跡と、儀式的な身のこなし、冷厳な挙措と、時にほとばしる残忍な手荒さと。そうした様子を、かつて彼が同じ階級に属し、肉体の関わりもあったと思われる、ホテルの長期滞在客------老醜に厚化粧の没落した伯爵夫人(イザ・ミランダ)や、自室で恍惚とバレエを踊る明らかな男色家(アメデオ・アモディオ)------との交渉に、見せていく。
そして、マックスこそは、元ナチ親衛隊員で強制収容所で権力を揮う将校だったのだ。
あの時、一人の美しいユダヤ少女を"餌食"にしたことを忘れない。少年のような体つきの、まだ蕾のルチア(シャーロット・ランプリング)であった。そのルチアが15年ぶりで姿を現わした時から、この耽美と幽遠の愛のドラマが再開するのだ。
今ホテルの客となった彼女は、アメリカの若き指揮者の幸せな妻であった。驚愕の再会に息をのむ二人。モーツァルトの「魔笛」が流れ、「追憶の部屋」のポスターが揺れて、甦る"忌まわしき"日々、収容所の回想------。
わななく裸身のルチアと加虐のマックス。犯し愛撫する倒錯の性と、ナチズムの狂気の饗宴とが、ほとんど淡彩に近い沈んだ画調で、浮かび上がっては消えていく。
その淫靡に残酷な風景が、いつしか不思議な優しさの魅惑で、二人の意識下に膨れ上がった時、堰を切って求め合う彼らは、一つになって床へ転がり、愉悦の思いで"過去"へと埋没していくのだ。
「この街は嫌い、すぐに出ましょう」と夫に叫んだはずのルチアは、だがすでに次の巡演地に送り出した夫を、もう追おうとはしないのだ。そして、彼女はホテルを引き払うと、ひそかにマックスのアパートに隠れ住む------。
彼女は追われる。夫の探索だけではなく、マックスの昔の親衛隊の仲間たち、片めがねの男(フィリップ・ルロワ)や、教授(ガブリエル・フェルゼッティ)に------。
彼らは、彼らの過去を抹消するために、ホテルの会合で模擬裁判を開き、犯した悪行の生き証人を消していくのだ。そして、今まさにマックスの"犯罪"の証言者として、ルチアが狙われているのだ。そして、彼女に追求の手が伸びることを恐れて、遂にマックスは一人の男を殺してしまう。
軍帽とサスペンダーの縞のズボンに、黒い皮手袋のルチアが、あらわな胸で、低く歌う。薄化粧のマックスが彼女を見守る。サロメの物語のヘロデ王のように、ヨハナーンならぬ囚人の生首をルチアに贈ったマックス。あれは悪行であったのか、犯罪であったのか------。
狂気の世界の狂気の行為と見えて、あれこそが実は、甘美な愛の陶酔ではなかったのか。そして、今再び、あの陶酔にのめり込んで、マックスとルチアは"加虐と被虐"の立場を逆にして、愛をむさぼるのだ。
そして、遂には食糧を断たれ、電気も切られて、追憶の密室に"凄愴の情念"が燃え立つ、妖しい官能美。所詮、愛とは罪ではないのか、恋とは反社会的な逃避ではないのだろうか。そして、"崇高"な恋愛の極致が、"死"であるならば、彼らの物語もまた、昇華されなければならない。
飢えと衰弱に追いつめられた二人は、張込みの目を盗み、部屋から脱出する。いつかマックスの手で着せられたのに似た、ユダヤの花嫁服の白いドレスで、髪にリボンさえ結び、少女の日に帰ったお人形のようなルチアは、凛々しい軍服姿のマックスに見守られて、頼りなげに美しい。
やがて、朝の光の運河の橋の上を、寄り添い手をつなぐ二人の背に、夜明けの鐘が鳴り、銃声がとどろく。まるで歌舞伎の舞台を思わせるような、悲痛で甘美な"情死行"で、この耽美と幽遠の愛のドラマは幕を閉じるのです。
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